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本文
本書は、河内長野市高向の郷土史家、三浦玄良氏が購入し保存されていた資料です。氏が亡くなられた後、残された膨大な郷土に関する資料は、ご家族から当館へ寄贈されました。その中に、この資料も含まれていたのです。
形態としては、元々は21丁からなる竪形の写本であったようですが、破損が激しかったため、巻子本に装丁を替えられています。
「大和日記」は、天誅組に関する貴重な資料で、内容から実際に天誅組に加わり戦った人物が書いたものであることがわかります。初めの「義兵趣意大略」で挙兵にいたる趣意を書き、8月14日の京都出立から五條代官所の襲撃、それに続く転戦、そして9月27日に中川忠光をはじめ7人が大坂へ到着し船で長州へ脱出するまでのことが、日を追って詳細に書き留められています。
現在、「大和日記」としては松下村塾が明治元年に出した版本(印刷された書籍)が一番古く有名で、そこでは、初めの「義兵趣意大略」を書いた松本謙三郎を著者としています。しかし、松本は9月11日の鷲家口の戦いで戦死していますので、9月27日まである内容と合いません。
これに対し、明治29年(1896)に土方久元が出版した「大和日記」では跋文に「右大和日記一巻は半田君紋吉の筆なり」との石田英吉の証言をあげ、半田門吉(紋吉)を著者としています。石田英吉(別名伊吹終吉)と半田門吉(紋吉)は天誅組に参加し、ともに最後まで中山忠光に同行して長州へ脱出した人です。土方久元の出版した「大和日記」は、この石田が所持していた「大和日記」の写本を原本としており、松下村塾が出したものとは原本としたものが違っていたようです。
三浦玄良氏は、この土方本の跋文の内容や、鷲家口の戦いでの半田の奮戦の様子が詳しく書かれていることなどから、半田を「大和日記」の著者と考えました。また、先に述べた通り、氏が購入し、その後ご家族から当館に寄贈されたこの写本の「大和日記大略(大和日記)」については、末尾に「苧扱川町三丁目 安永亥吉」と元の所蔵者の住所・氏名が書かれているのですが、この地名が現在の福岡県久留米市に明治11年(1878)から昭和7年(1932)まであった町で、半田門吉(紋吉)も久留米藩の出身ということ、またその運筆(筆跡)や内容等などから考えて、半田門吉(紋吉)本人が書いた写本であると、三浦氏自ら「真筆大和日記解題」(三浦玄良)で書いておられます。
なお、本資料は、株式会社ライトリー(大阪府四條畷市)の協力のもと、PDF化し、読みやすく釈文を付けました。PDF上では口語訳となっていますが、釈文ですのでご了承ください。