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【ブログ】くろまろ塾教養講座-文化編-聖徳太子を訪ねて~ゆかりの地から学ぶ~【第2回】聖徳太子と斑鳩

印刷ページ表示 更新日:2023年10月18日更新
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くろまろ塾 本部講座 教養講座-文化編-

聖徳太子を訪ねて~ゆかりの地から学ぶ(全3回シリーズ)

第2回「聖徳太子と斑鳩-発掘調査から古代の斑鳩を探るー」

今回のレポート

こんにちは。くろまろ塾運営ボランティアスタッフの栗栖です。

今回のレポートは、9月17日開催の上記全3回シリーズの第2回 「聖徳太子と斑鳩-発掘調査から古代の斑鳩を探るー」についてです。前日16日開催の第1回 「聖徳太子と四天王寺-古代宗教と寺院建立の謎ー」 に引き続きます。

講師

 斑鳩町教育委員会事務局 生涯学習課 課長補佐 荒木浩司先生。専門は日本考古学、著書「史跡中宮寺跡発掘調査報告書」、共著「飛鳥と斑鳩-道で結ばれた宮と寺」など。

構成

聖徳太子・上宮王家・法隆寺関係略年表、斑鳩地域の飛鳥時代の遺跡地図(図1)参照、聖徳太子系図(図2)参照、などをベースとして、斑鳩宮(法隆寺東院)、岡本宮(法起寺)、飽波葦墻宮(上宮遺跡)、中宮(中宮寺跡-中宮寺創建地ー)、法隆寺(若草伽藍)、法輪寺などについて、発掘調査に重点をおいて解説されました。

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以下は、当講座の抜粋です。

 

(図1)斑鳩地域の飛鳥時代の遺蹟 位置図

 

 

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(図2)聖徳太子系図

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1.斑鳩宮(いかるがのみや)(法隆寺東院)、法隆寺(若草伽藍)

■聖徳太子が601年に造営。法隆寺東院伽藍(法隆寺東400m)の下層が斑鳩宮とされる(図3)参照。

■斑鳩宮を造営した理由は、交通の利便性(大和川利用)などが考えられる。

聖徳太子は、蘇我氏と距離をおくために斑鳩に移ったという考えもあるが、聖徳太子は蘇我系の皇子であるため、蘇我馬子の同意のもと、斑鳩に移住としたという考えもある。また、「斑鳩宮」以外に、「岡本宮」や「飽波葦墻宮」を造営していることから、飛鳥から一族を引き連れて斑鳩の地に移住したと考えられる。

 (図3)斑鳩宮(法隆寺東院)、法隆寺(若草伽藍)位置図

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■昭和9年から開始された東院の建物修理に伴う発掘調査で、方位が真北でなく西に11度程度傾いた掘立柱建物跡が見つかり、焼土や灰等が出土したことから、これらの遺構は「斑鳩宮」の一部と考えられている。

若草伽藍跡にある塔心礎の上面には、心柱を四方向から補強した添柱部分を掘り込みがある(図4)参照。

現法隆寺境内での若草伽藍跡の発掘調査で、金堂と塔の基壇に伴う掘込地業の跡が見つかったことから、聖徳太子が建立した法隆寺が若草伽藍であることが明らかとなった。

また、若草伽藍跡の西側での調査では、焼けた瓦や壁画片などが見つかっている。

 (図4)心礎に残された添柱部分の掘り込み

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2.岡本宮(法起寺)

■法隆寺の北東2km。聖徳太子が亡くなる際に、息子である山背大兄王に、「岡本宮」を寺にあらためるように遺言し建立されたとされる寺で、法隆寺と共に世界遺産に登録されている。別名を岡本寺(岡本尼寺)、池尻寺(池尻尼寺)などと呼ばれる。なお、三重塔は日本最古、最大である。

境内の発掘調査で、金堂と塔の配置が法隆寺と逆になっていることが判明した(図5)参照。また、境内の周辺における発掘調査では、覆屋のある立派な井戸(図6)参照、や飛鳥時代前半の軒瓦(1・2・3)(図7)参照などがあり、これらは、聖徳太子の「岡本宮」に関係する遺構や遺物の可能性がある。

 (図5)法起寺旧境内発掘調査遺構図

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 (図6)法起寺旧境内 井戸遺構図

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 (図7)法起寺出土 軒瓦

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3.飽波葦墻宮(あくなみあしがきのみや)(上宮遺跡(かみみやいせき))

■法隆寺の南東1.5kmに位置する。聖徳太子臨終の宮との伝承がある。

発掘調査で、飛鳥時代と奈良時代の遺構を検出。奈良時代の遺構は、南北の方向がキチットした掘立柱建物群で称徳天皇の「飽波宮」の可能性が高い。飛鳥時代の遺構に、井戸跡と思われる直径5mの大きな土坑(図8)参照があり、出土品には土器類、瓦などがある(図9)参照。これらは聖徳太子の「飽波葦墻宮」に関係する遺構、遺物の可能性がある。

 (図8)上宮遺蹟 井戸跡検出状況

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 (図9)上宮遺蹟 井戸跡出土土器

 

4.中宮(中宮寺跡ー中宮寺創建地-)なかみや(ちゅうぐうじあと)

■現在の中宮寺の400m東方に位置する。聖徳太子が、母の穴穂部門人皇女の崩御の後に宮を寺に改めたとされる。

発掘調査では、寺跡のほぼ中央に土壇(周囲より高くした建物の基礎)があり、南半分が塔、北半分が金堂で聖徳太子が建立した若草伽藍と同じ配置となっている(図10)参照。

 (図10)中宮寺跡 金堂及び塔基壇推定復元図

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金堂基壇は瓦積基壇(図11)参照であるが、基壇に用いられた瓦が不揃いなことや礎石の根石に焼けた凝灰岩製切石片が用いられていることから、これは創建時の基壇ではなく、創建時の建物が焼失し、その屋根瓦の再利用とみられる。なお、創建時の基壇は、凝灰岩製切石を用いた切石積基壇と考えられる。

 (図11)瓦積基礎復元図と写真

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発掘調査で、塔跡から、基壇の版築土で覆われた、塔建築とは関係のない柱穴がみつかった。

諏訪神社の御柱立ても足場を利用して建てられていることからも、見つかった柱穴は、心柱を心礎上に立てるための「足場」のものと推察される(図12)参照。

なお、このような「足場」のものと考えられる遺構は、日本では中宮寺跡ではじめて確認された。

 (図12)心柱の立て方の想像図

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■塔心礎上面からは、鮮やかな金環やガラス玉などが見つかっている(図13)参照。

 (図13)出土した埋納品

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5.法輪寺

■法隆寺の北北東1.5km。聖徳太子の子の山背大兄王が、父の病気平癒を願って建立したと伝えられる

発掘調査では、伽藍配置は、法隆寺式伽藍配置法隆寺の三分の二のサイズで建てられたことが分かった。(図14)参照。また、塔心礎(図15)参照、朱塗り鴟尾片、線刻画瓦、刻印瓦、軒瓦などが見つかっている。

 (図14)法輪寺境内配置図

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 (図15) 塔心礎杭と塔心礎

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写真は講座終了後の個人的質疑の様子。

 

講座の抜粋は以上となります。

 

6.終わりに

■講座では、当時の進んだ土木技術や建築技術に加えて、聖徳太子の家族愛や血縁親族との骨肉の争いなど、現代の世相にも通じる話題についても言及されました。聴講者は、1400年余り前の技術の先進性や、聖徳太子の人間味に富んだ話題などに興味深く聞き入っていました。

 

■第3回「竹内街道と聖徳太子-磯長谷古墳群から探るー」は、10月14日(土曜日)に開催されます。

第1回、第2回に引き続いて、更なる興味ある話題が提供されると考えられます。

レポートは以上です。最後まで読んでいただいてありがとうございました。

<配付資料>

・斑鳩町教育委員会 荒木浩司 プリント 「聖徳太子と斑鳩―発掘調査から古代の斑鳩を探る-」 2023年9月17日

・斑鳩町教育委員会 リーフレット 「国指定史跡 中宮寺跡」 2019年9月30日

・斑鳩町 リーフレット 「斑鳩文化財センター」