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政僧「文観房弘真(もんがんぼうごうしん)」とは?

印刷ページ表示 更新日:2019年10月20日更新
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政僧「文観房弘真(もんがんぼうごうしん)」とは?

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皆さん、こんにちは。くろまろ塾運営ボランティアの西岡です。
河内長野が日本遺産認定を受けた記念の教養講座(歴史編)の第3回「南北朝時代における文観と観心寺・金剛寺」を受講しましたので、レポートします。

皆さんは、文観房弘真(以下「文観」)と言う僧の名前を聞いたことがありますか?私たち河内長野市民が、南北朝時代に活躍した人物として先ず思い浮かべるのは、たぶん大楠公(楠木正成)ではないでしょうか?しかし、同じ時代、後醍醐天皇、後村上天皇から信任を受け、観心寺や金剛寺を支えた真言宗を代表する僧侶が活躍していたのです。歴史に関心の高いくろまろ塾生でも、知らなかった方が多かったのではないでしょうか?ここで、文観の生涯を駆け足で観てみましょう。

文観は、弘安元年(1278年)播磨国に生れ、13歳にして播磨国法華山一乗寺(天台宗)にて出家。2年後南都(奈良)に入り興福寺の良恩から法相宗、信空から律蔵を学んでいます。1301年には両部灌頂を受け、1316年39歳のとき醍醐寺報恩院にて真言密教の伝法灌頂を受けています。かなりの秀才で法力もあったのではないかと思われます。文観の信仰は、文殊信仰と観音信仰が基調となっており、文観の文は文殊菩薩の文、観は観音菩薩の観に由来しているそうです。文観が政治に大きく関わってくるのは、壮年期からです。

1325年~1330年にかけて、文観は、後醍醐に両部伝法灌頂や瑜祗灌頂など真言密教の高度な授法を授けています。そして1329年、後醍醐の討幕計画に加担し、「関東調伏」の祈祷を行っています。しかしこれが幕府に発覚し、1331年に後醍醐は隠岐に配流、文観は硫黄島に流されてしまいます。ところが、なんと1333年鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐は京都に帰還し建武政権が発足します。延元元年(1336年)、後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立したおり、文観は観心寺と金剛寺を勅願寺化しています。そして後醍醐が1339年吉野で死去し後村上天皇の時代、南朝が京都回復した折(1351年)には、文観は東寺一長者(真言宗の最高位)や醍醐寺の座主をも兼務し、南朝の宗教界において絶大な権威を誇ったと考えられます。最晩年(1354~1356年)には、金剛寺を行宮(あんぐう:天皇外出時の仮の御所)にしたり灌頂院を建立するのに尽力しており、1357年なんと80歳の長寿を全うして金剛寺大門往生院で入滅しています。

文観は中世の政局、特に南河内の地に深く関わり、まちがいなく楠木正成に匹敵する影響力のあった人物であったことが、受講者の記憶に刻まれたのではないでしょうか?

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今回の講師は、高野山大学 文学部 坂口太郎専任講師で、本講座では信頼性の高い古文書や研究成果にもとづいた内容で、情報元を示していただきながら時代の流れを説明していただきました。私たち、にわか歴史ファンは、「太平記」の内容なども、つい史実と受け止めてしまいがちですが、講座を聴きながら反省の思いを深くしました。

最後の質問コーナーでは、観心寺の関係者から質問もあり、充実した内容の講座になりました。先生、有難うございました。

以下に、受講者アンケートの一部をご紹介します。

◆文観について詳細に説明して頂き、今まで私の知らなかった観心寺・金剛寺との関わりが良く理解できました。
◆南北朝期に於ける仏教(真言密教)との関わりが難解であった。
◆楠公以外にも、中世日本の歴史に深く関わる人物が河内長野にいたことを学べた。

最後に、今回もくろまろ塾ボランティアが司会や受付に活躍してくれました。お疲れ様でした。

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