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「楠公さん」に関する取り組み

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四條畷市(大阪府)

印刷ページ表示 更新日:2020年12月28日更新
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御妣(みおや)神社

みおやじんじゃ

楠木正成の妻にして、正行の母・久子を祀った神社。正行を祀る四條畷神社の摂社で、(四條畷神社の)本殿の左隣に鎮座している。1925年(大正14年)10月5日に鎮座し、台湾檜で建てられた。
今では子宝・子育てのパワースポットとして知られている。

小楠公御墓所

しょうなんこうごぼしょ

楠木正行のお墓は、かつて南野村字雁屋と呼ばれた地区に「楠塚」として存在した。正行を慕っていた村人たちは密かに葬ったが、足利軍を憚り、「南無権現」とのみ刻んだ小碑を建てたといわれている。
明治政府により、南朝が正統とされたことで正成が大楠公として神格化され、父同様に南朝のために戦った正行も、小楠公と称されるようになった。それに伴い、1878年(明治11年)に楠塚は「小楠公御墓所」と呼ばれるようになり、規模も拡大した。
府の史跡にも指定されている。

小楠公の楠

しょうなんこうのくすのき

楠木正行が四條畷の戦いで高師直(こうのもろなお)に敗れ、死後小さな石碑が建てられた。石碑の両側には2本の若い楠が植えられたが、長い年月が経つと2本の楠は1本になり、石碑は木の中に入り込んでしまったとされている。幹の周りは12m以上に及ぶ。
この楠の隣には、1877年(明治10年)に建てられた、大久保利通の自筆による墓碑がある。
樹齢は550年を超えるとされており、大阪府指定の天然記念物にもなっている。

和田賢秀(けんしゅう)の墓

わだけんしゅうのはか

正成の弟・正季(まさすえ)の子でかつ、従兄弟である正行の家臣・和田賢秀の墓所で、勇将として知られる賢秀が討たれた地とも言われている。四條畷の戦いの際、正行が討ち死にした後も、高師直の首を討とうとしたが、自身が首をはねられてしまったとされている。
また、賢秀には歯にまつわる様々な伝承が残されており、「歯神さん」としても信仰を受けている。府の史跡にも指定されている。

四條畷神社

しじょうなわてじんじゃ1   しじょうなわてじんじゃ2

楠木正行を主祭神として祀る神社。明治政府が南朝を正統とした時代背景の中で、同地区内の住吉平田神社の神職の発案から、1890年(明治23年)、住吉平田神社の南隣の山麓に建てられた。
拝殿前の木製の鳥居は、創建100年祝いとして伊勢神宮から贈られたものだそう。

※「楠公さん」ゆかりの地の紹介ページです。文化財に関する詳しい説明は省略していますのでご了承ください。