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後醍醐天皇の勅願寺で、天皇御自らご祈念された蔵王権現像や後村上天皇御親作の後醍醐天皇像などを伝える。
また、如意輪堂の裏山には後醍醐天皇の塔尾陵がある。
小楠公が四條畷への出陣に際し、一族郎党百四十余名の名を認め、髻(もとどり:頭上に束ねた髪)を如意輪堂に投げ入れ、その堂の扉に「かへらじと かねて思へば 梓弓 亡きかずに入る 名をぞとどむる」の辞世の歌を鏃(やじり:矢尻)をもって刻んだと伝えられ、今に伝わる。
弁内侍は、後村上天皇に仕えた女官で、小楠公に嫁ぐことを許されたが、彼は、「とても世に 永らふべきも あらぬ身の 仮のちぎりをいかで結ばん」とお断りした。弁内侍は、小楠公の戦死を知り、「大君に仕えまつるも 今日よりは 心にそむる 墨染めの袖」と詠って髪を落とし、ここに埋納したと伝える。
建武の新政を失脚して京都から逃れ、吉野に南朝を建てた後醍醐天皇が皇居を置いた地とされる。一生を終えたのもこの地とされており、その後も3代に渡り、南朝の歴史はこの地で続いた。明治時代になると、廃仏毀釈の潮流に飲まれて廃寺となった。現在は南朝妙法殿が建ち、皇居跡公園として整備されている。南朝4帝の歌碑も建っている。
※「楠公さん」ゆかりの地の紹介ページです。文化財に関する詳しい説明は省略していますのでご了承ください。