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「楠公さん」に関する取り組み

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河内長野市(大阪府)

印刷ページ表示 更新日:2020年12月28日更新
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観心寺

中世に学問寺として栄え、楠木正成を育んだ地域の文化や社会環境を整え、南朝の拠点となった寺院。後に正成を祀り奉賛する舞台ともなった。

金堂(国宝)

こくほうこんどう

後醍醐天皇の勅により、楠木正成が金堂外陣造営の奉行を行ったと伝えられている。

観心寺中院

正成が8~15歳までの間、住職の滝覚坊に学問を習ったとされ、幼き日の正成の逸話を後の世に伝えている。

観心寺建掛塔

かんしんじがんかけとう

楠木正成の発願(ほつがん)によって三重塔として建て始められたが、湊川の戦いで戦死したことにより、建設途中で未完のままとなったと伝えられる塔。正成のクライマックスとなった逸話を後の世に伝えている建造物。

藍韋肩赤威腹巻(伝楠正成所用)

楠木正成が着用し、奉納したとする寺伝を有する甲冑。室町時代中期のものと見られる。正成の逸話を後世に伝えている。

楠木正成首塚

観心寺の境内にある。湊川の戦いの後、尊氏の命によって送り届けられた正成の首級が葬られているとされる首塚。正成のクライマックスとなった逸話を後の世に伝えている。

観心寺文書

楠木正成・正成の自筆書状が残されている。

金剛寺

こんごうじ

楠木正成の自筆書状などが伝わっており、彼の人柄などを後世に伝える貴重な資料が多く収蔵されている寺院。観心寺と同じく中世の教育機関となり、南朝方の拠点となった。

天野殿

現在、「食堂」として重要文化財に指定されている。南朝の正庁として使われた建物で、江戸時代に書かれた「河内名所図会」には、ここで楠木氏一族が加わり軍議がなされた様子が描かれており、彼らの活躍の舞台として後世に伝わっている。

紙本墨書 楠氏文書

金剛寺に伝わる楠木氏が宛てた文書群。この中に正成が金剛寺僧の戦勝祈願の霊験を喜び、その労を謝したものがある。正成の活躍や人柄を後世に伝えている資料である。

伝楠氏一族所用腹巻及び膝鎧

金剛寺に伝わる楠木一族が奉納したと伝えられる12領の鎧。正成の活躍を後世に伝えている資料である。

天見古戦場跡/出合の辻

1333年(元弘3年)正月に行われた正成方と鎌倉幕府方とが戦った天見合戦の古戦場跡。敵、味方が出合った場所にちなみ「出合」という地名が残る。正成の活躍の舞台として後世に伝わっている。

大江時親邸

楠木正成の兵法の師とされる大江時親の邸宅とされる場所である。現在、邸宅の敷地と18世紀の築造とみられるカヤ葺民家があり、初代より48代目の当主が居住している。幼少期の正成の行動を後世に伝える舞台となっている場所。

烏帽子形城跡

楠木正成が築造した七城の一つと伝えられ、正成の活躍の舞台となった場所とされ、後の世に伝えられている。

石仏城跡

楠木正成が築城した支城の一つという伝承がのこっている。天見合戦の際に、兵を伏せたとする伝承もあり、正成の活躍の舞台となった場所とされ、後の世に伝えられている

旗尾城跡

天見駅東方にある旗尾山頂上にある。天見合戦の際に、楠木正成が見張りを置いたとする伝承があり、正成の活躍を後世に伝える場所となった。

大沢塞跡

大阪、奈良、和歌山の県境付近にある。楠木正成が千早城を守るための防衛陣地の一つとして設けたといわれ、正成の活躍を後世に伝える場所となった。

矢伏観音

石造十一面観音で高さ43cm幅 18cmの船形石に刻まれており、楠木正成にまつわる「身替わり」伝説が伝えられている。幼少の頃の正成が兵法家大江時親に兵法を学んでいた際に、楠木氏と敵対する八尾(やお)(矢尾)顕(あき)幸(ゆき)が刺客を放ち命をねらわせたが、観音の加護により命を救われたとされる。幼少期の正成の逸話を後世に伝える舞台となっている。

大江修理亮遺跡碑

1902年(明治35年)に、帝国博物館(現在の国立博物館)の初代総長を務めた九鬼隆一によって、大江時親を顕彰するために作られた碑文。幼少期の正成の逸話を後世に伝える舞台となっている。

※「楠公さん」ゆかりの地の紹介ページです。文化財に関する詳しい説明は省略していますのでご了承ください。