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重文 阿弥陀如来坐像

印刷ページ表示 更新日:2019年4月15日更新
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区分(有形文化財)種別(彫刻)

重要文化財 木造 阿弥陀如来坐像

mokuzou amida-nyorai-zazou 一躯

所在地 河内長野市美加の台
所有者 興禅寺
時代 平安
指定年月日 昭和31年6月28日

重要文化財 木造 阿弥陀如来坐像の画像

わがまち文化財探訪 平成18年9月号

 

 興禅寺(宗旨は曹道宗)の開創については、詳しくはわかりませんが、かつて寺に祀られている仏像などから、かつては真言宗の寺院であったことがわかります。ですが、寺の伝えによると、本堂は中興の祖といわれる大阪鳳林寺の住職であった養愚(ようぐう)が、元禄五年(1702)に本多隠岐守康慶(ほんだおきのかみやすよし)の寄進を得て再建されたものとされています。
 当市内には塚堂寺(日野)、河合寺護摩堂(河合寺)、池坂墓地阿弥陀堂(上原町)、天野墓地(天野町)、極楽寺(古野町)などに阿弥陀如来像が伝えられていますが、本像は像高が144.2cmもあり、当市で最も大きく、造形的にも優れた像と言えます。
構造は寄木造で、目は彫眼で、両手には上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)を結び、足は結跏趺坐(けっかふざ)の形をとっています。また本像は穏やかで優美な表情をもち、なだらかな肉付けなど全体的に控えめな彫刻(定朝様・じょうちょうよう)が施され、このような特徴から平安時代(12世紀)に制作されたものと考えられています。ちなみに光背と台座は後世に補われたものです。
 阿弥陀如来への信仰は、インドで発達し、中国を経て、日本には奈良時代ごろに伝わりました。
 したがって、日本に伝来されるまでに経緯した地理、歴史などが、この仏像の名前や仏教思想などに大変影響を与えました。
 例えば阿弥陀如来の名前は、サンスクリット語(インド古代言語)で「アミターユス」や「アミターバ」と呼ばれていたことに由来しています。これが後に中国で音訳され、「阿弥陀」になりました。
 平安時代後期(11世紀)、当時流行した末法思想を背景に、「阿弥陀の来迎」が注目され、その姿を表した阿弥陀如来の仏像や仏画の製作が盛んになります。
 「来迎」とは、阿弥陀如来のいる西方極楽浄土に生まれ変わりたいと願う人が死ぬ時、阿弥陀如来が浄土(あの世)から迎えに来てくれることを言います。
 本像の姿には、このような思想、歴史、そして当時の人々の極楽往生への切実な願いが刻まれています。

参考文献:河内長野市役所(1973)『河内長野市史 第十巻 別編二』

南海「美加の台」駅下車、北へ徒歩5分