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市指定 伊達政宗自筆書状

印刷ページ表示 更新日:2019年4月17日更新
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区分(有形文化財)種別(書籍・典籍・古文書)指定番号(書5)

市指定文化財 伊達政宗自筆書状

datemasamune-jihitsu-syojyou 縦17.2cm、横176.0cm 一通

所在地 河内長野市寺元
所有者 観心寺
時代 安土桃山
指定年月日 平成22年4月7日

市指定文化財 伊達政宗自筆書状の画像1市指定文化財 伊達政宗自筆書状の画像2

 本書状は、観心寺に伝わる古文書のひとつである。来歴は明らかではないが、『大日本古文書』(「家わけ第六」)には、「コノ文書ハ、モト先住友兼大応氏ノ購入シタルモノニカカリ、後、観心寺ノ所蔵ニ帰セリ」と注記されている。六紙を継いだ和紙に墨でしたためられたものである。
 陸奥・仙台城主の伊達政宗(1567~1636)が自筆で記し今井宗薫に宛てたもので、年次を欠くが、内容から関ケ原合戦の翌年、慶長6年(1601)卯月(4月)21日付けと判断される。政宗の署名の下には有名なの花押が据えられ、六紙それぞれの継ぎ目には政宗の黒印が捺されている。
 宛て先の今井宗薫(1552~1627)は堺の町人で、織田信長・豊臣秀吉の茶頭を務めた今井宗久の嫡男。父同様茶人として知られ、秀吉のお伽衆のひとりとなり、秀吉死後は秀頼に仕え、摂津国住吉郡内で千石を領したが、次第に家康に接近し、慶長5年の関ヶ原合戦では家康方東軍に与して、戦後三百石の加増を受けた。
 本状で政宗は、まず関ヶ原合戦以前から続く出羽・庄内地方の土一揆・内乱がようやく鎮圧されたことを報じ、次に諸大名が悉く大坂城下の屋敷から伏見城下へ移ったという状況を伝え聞き、大いに喜んでいる。
 関ヶ原合戦後、徳川家康は秀頼に戦勝報告を行ったのち、そのまま大坂城に留まり、西の丸で戦後処理を含む政務に携わったが、慶長6年3月23日大坂城を出て、伏見城に移った。これにともない諸大名も、秀頼の膝元・大坂から家康のいる伏見城下へと移って行ったのである。
 政宗は本状以前にも、3日前の4月18日付で今井宗薫に宛てて自筆書状(大阪城天守閣所蔵)を送っており、今後の豊臣家に対する措置、秀頼の処遇などについて自らの意見を述べ、宗薫から本多正信を通じて家康に伝わることを願ったが、本状ではその内容がさらに詳しく、具体的になっている。
 「秀頼様がご幼少の間は、江戸か伏見か、家康様のお側に置いて、おとなしく成人させ、無事成人の暁には家康様のご分別でしかるべくお取り立てになるのがよい。また、いかに太閤殿下のお子であろうと、日本の政治を行うほどの人物ではないと家康様がご覧になるのなら、2~3ヶ国でもあてがえば、それでよいのではないか。現在のように大坂にふらりと置いておくと、世にいたずら者が現れ、秀頼様を大将にまつりあげ、謀反を起こすことにもなりかねない。そのために秀頼様が切腹なされるような事態にでもなれば、それこそ太閤殿下の亡魂に対し申し訳がたたない」と記し、宗薫から重ねてこのことを本多正信にぜひ進言してほしいと依頼している。
 豊臣秀頼はその後も、徳川幕府に比肩し得る権威を保持したまま大坂城に君臨し続け、まさに政宗が心配したとおり、本状から13年ののち、多くの浪人衆が大坂城に入り、大坂冬の陣が起こって、翌年の夏の陣で、慶長20年5月8日秀頼は切腹し、豊臣家は滅亡する。したがって本状は政宗の優れた洞察力を示すものといえるが、それとともに、政宗ほどの大々名でも、今井宗薫や本多正信を介さねば、直接家康に献策できなかったことが知られ、たいへん興味深い。ちなみに宗薫は、慶長4年正月に、徳川家康の命を受け、家康の六男松平忠輝と伊達政宗の息女五郎八姫の婚儀を調えようと奔走し、石田三成ら五奉行から厳しく譴責されており、家康と政宗の間をとりもつ立場にあった。
 このように本状は、慶長3年8月18日に豊臣秀吉が亡くなって以降、関ヶ原合戦、江戸開幕を経て、時代が豊臣から徳川へと移りゆく中、きわめて重要な内容を持つ資料である。また、豊臣秀頼が観心寺諸堂の修理に尽力した事実を併せ考えると、日本史全体の大きな流れと河内長野市の歴史との接点を身近に感じることのできるたいへん興味深い資料でもある。