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市指定 河州錦部郡下里村・泉州大鳥郡上神谷村十一ヵ村国境争論絵図
区分(有形文化財)種別(絵画)指定番号(絵9)
市指定文化財 紙本著色
河州錦部郡下里村・泉州大鳥郡上神谷十一ヵ村国境争論絵図
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縦146cm 横224cm 一鋪
所在地 | 河内長野市下里 |
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所有者 | 下里町会 |
時代 | 江戸 |
指定年月日 | 昭和61年4月12日 |
元禄十四年(一七〇一)のもので彩色が施されている。尾根と谷が克明に描かれ、国境が記されている。
絵図の裏面には、下里村と上神谷十一カ村との国境争い裁判の判決文並びに関係者の連判が記されている。裏書を含め当市域の近世国境争論を知る上で貴重な資料である。
この争論は、幕府から国絵図改訂の命を受けて、元禄十一年(一六九八)十月に河内(錦部郡膳所(ぜぜ)藩本多氏)・和泉(大鳥郡大庭寺(おばでら)藩渡辺氏両国)が国絵図をつくるにあたって各々の所領の国境を確認する作業に取りかかったことが始まりとなった。
元禄十三年(一七〇〇)十二月に下里村の近隣である小山田村庄屋が証人となり、国境線が決定されたが、元禄十四年(一七〇一)三月の青坂の下道が崩壊したことが原因で、またも論争が再発した。
結局、同十四年十二月二十一日に京都所司代松平紀伊守信庸・京都町奉行水谷信濃守勝阜・安藤駿河守次行・瀧川山城守具章の四名により、裁定が下り上神谷村の主張が退けられた。この背景には、六万石を有する膳所藩と一万石余の大庭寺藩の力の差があったものと推察される。
こうして河内の元禄国絵図は、翌元禄十五年四月に完成した。
参考文献:河内長野市教育委員会(1983)『河内長野の古絵図』