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市指定 僧浄厳墓

印刷ページ表示 更新日:2019年4月17日更新
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区分(史跡名勝天然記念物)種別(史跡)指定番号(史2)

市指定文化財 僧浄厳墓

sou-Jougon-bo

所在地 河内長野市神ガ丘
所有者 延命寺
時代 江戸
指定年月日 昭和45年11月26日

市指定文化財 僧浄厳墓の画像

 無縫塔(む ほうとう)と呼ばれる石造遺物の一種で、その形状から卵塔ともいわれている。基礎・竿・請花・塔身より成る重制と基礎・請花・塔身より成る単制の二形式がある。重制は塔身が低く、単制は塔身が細く高い。わが国の塔形は、宋代の僧侶の墓塔に直接ならったものといわれている。また禅宗と関係の深かったことも指摘されている。
 ここにあげる僧浄厳の墓も無縫塔の一種であり、塔身形状から考えてその形式は単制である。塔身頂部は宝珠形を呈しているが、この傾向は江戸時代中期より認められるようである。
 浄厳は、寛永十六年(一六三九)河内国錦部郡鬼住村(河内長野市神ガ丘)に生まれた。幼名は不明であり、字(あざな)・仮名(けみょう)(よび名)は覚彦、諱(いみな)(僧としての本名)は雲農、後に浄厳、妙極と改名する。
 二十四年にわたる高野山での修行後、帰村し、延宝五年(一六七七)に延命寺を建立した。その後、元禄四年(一六九一)に将軍徳川綱吉に謁見し、江戸湯島(東京都文京区)の土地の寄進を受け宝林山霊雲寺を建立した。とくに律を重じて真言密教の振興をはかり、江戸時代を代表する有智有徳の僧の一人であった。元禄十五年(一七〇二)の入寂。