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『楊枝の歴史』 ・楊枝の誕生 楊枝(ヨウジ)を初めて使ったのはネアンデルタ−ル人でおよそ10万年前と言われています。 歯の化石に縦の筋がありこれは、堅い木の枝等で歯を擦った跡ではないかと推測されています。 食べた後に木の枝等で歯を擦ったり挟まったものを取り去ったりして歯を守った。この木の枝等が楊枝(楊枝=歯木)や歯ブラシの始まりであり楊枝を使うことは人類、最初の習慣だった。 食物を柔らかくして食べる調理方法も発達していなかったので、歯を失うことがあれば死に結びつき「歯は命」だった。 ・仏教とともに発展した楊枝 楊枝は奈良時代に仏教と共にインドから中国・朝鮮半島を経て我が国に伝わりました。 当時は歯木(シボク)と呼ばれ、木の枝の一端を噛んで毛筆の毛先状にしたもので,そもそもお釈迦さま(紀元前五百年頃)が弟子達にこの歯木で歯を清潔にすることを教えられました。 古代インドの『伝承医学書』の中に歯木のことが詳しく述べられています。 木の枝の歯ブラシ、歯木は現在でも多くの国で使われています。インドでは「ニ−ム」(ニンバ)、パ−ブル等の木、パキスタンではピ−ルウ、サウジアラビアではサルバドラ、アフリカ諸国の多くはクルミというように多彩です。ミャンマ−では竹も歯木として使われており、まさしく所変われば品変わるです。歯木に使われる木はいずれも薬木でこの樹液の中に含まれるフッ素やタンニンの抽出液を使った練り歯磨きも作られています。 仏教が中国に伝わった時、同じ木がなく歯木に楊柳(ようりゅう)の木の枝を用いた事から「楊枝(ようじ)」という言葉が生まれました。 (歯楊枝は現在の爪楊枝ではない) 楊枝(ようじ)」は僧侶が常に身につけておくべき「比丘十八物」の第一番にあげられています、口を漱ぎ身を清めることが信仰者の心得の第一条件であり、今も仏教界では儀式化され残っています。 歯木(楊枝)は仏教では信仰のうえからも社会生活のうえからもとても大切な用具ででした。 我が国で最初に楊枝の大切さを説いたのは、福井の永平寺を開いた曹洞宗の開祖・道元禅師です。彼が中国へ渡った時、二〜三尺離れた相手の口臭ひどさに閉口し、その原因は楊枝を使用する習慣がすたっているためだとお釈迦さまの薦められた楊枝が使われていないのを嘆き、その書の『正方眼蔵』に楊枝の作り方、使い方、捨て方まで細かく書かれています。 その書の中に「楊枝に出会うことは仏に出会うこと」だと述べられている。 楊枝が大切であるという考え方は、現在も行事の中に残っています。 京都の三十三間堂『楊枝のお加持大法要』・東京の浅草『楊枝浄水加持会』では、楊の枝を水瓶(浄水)に差し、参詣者に楊でその水を振りかけて貰い病から逃れられるという儀式で大勢のお参りで賑わい、この儀式では楊枝が健康のシンボルになっています。 ・貴族への浸透 仏教とともに我が国に入ってきた楊枝は、僧侶達の規律の一つとして口を漱ぎ、顔を洗って身だしなみを整え、仏に仕えるという生活の中で次第に根をおろしていった。 そういう清潔な生活習慣を身に付けた僧達から、彼らと交わることの多かった貴族達へと楊枝の大切さが伝わった。 平安時代末期の絵巻物「病草紙」の中に「歯槽膿漏を病む男」が大きく口を開いて痛がっている様子と「口臭のひどい女」がお歯黒をした大きな口を開けて、房楊枝を使っている様子が描かれています。 朝に楊枝を使って口を漱ぎ、顔を洗うことが社会生活をしていく上でとても大切なこととして根を下ろして行き、この習慣が貴族から次第に庶民に伝わっていった。 ・庶民への普及 楊枝は奈良時代に僧侶によって使われ始め、平安時代には貴族に広がりました。 庶民が楊枝を使うようになったのは、豊作を願って歌われた労働歌の「田植え歌」の中に楊枝が歌たわれています。 「けふの田主はかねのようじをくわえた」や「楊枝木には南天竺のびわの木」などの言葉がでてきます。 楊枝は江戸時代には庶民の間にすっかり定着し、人の多く集まる通りに店が出され、そこで楊枝を作りながら販売されていました。 この時代には、房楊枝と同様、先端を鋭く尖らせたいわゆる「爪楊枝」も使われました。江戸時代には、一方が毛筆のように房状になっている房楊枝の、もう一方の先は尖っていて、「爪楊枝」になっており、さらにその柄の部分はカーブしていて舌掃除に使うようになっています。 ・歯ブラシの登場 長く使われてきた房楊枝がその姿を消したのは、明治時代の初めにアメリカから歯ブラシが入ってきて、その座を取って代わられた。 そして独立した「爪楊枝」だけが今も残っている。わが国で1200年以上の歴史を持ち、口腔衛生に多大の貢献をしてきた房楊枝が急速に姿を消していきました。 房楊枝では歯の裏側が磨きにくく、木のささら状になった部分が取れて口の中に残り、耐久性がないなどがその理由と考えられます。 明治初期に作成された図解語彙集である『通常物図解問答』に房楊枝と歯ブラシの絵が描かれている。 明治5年頃、大阪で、鯨髭に馬毛を植えた楊枝を製造し、それに「鯨楊枝」の名称をつけて大阪市内の小物屋で販売された。 これが今日の歯刷子製造の始源であり、日本で最初の歯ブラシです。 歯刷子という名称が用いられ出したのはおよそ明治末期で楊枝そのものは歯ブラシに取って代られましたが「楊枝」という名称は長く用いられました。 |
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中世ヨ−ロッパでは獣骨が使われ、中でも野ウサギの骨が多く用いられ狩猟民族が最も身近に目にしていたもので楊枝として使われた。 わが国、日本古来のものとしては漁民が身近な材料で作ったマグロ・カツオの尾ひれの楊枝があります。 楊枝の素材として最も多く使われたのは象牙や鼈甲です。 これらは薄くしていろいろな形に加工され使われた。中でも多いのは折りたたみ式のナイフの形でです。一方が楊枝で片方が耳かきになっていて必需品として何時も持ち歩かれていた。 古代インカ帝国にも楊枝がありました。その形や雰囲気はヨ−ロッパやアジアのものとは全く異なっおりすべて純度の高い銀製ですが一部、青銅製の楊枝もありました。 日本には木の楊枝しかありませんが、海外には金属をはじめとしたいろいろな素材が使かわれていたので現品が残っていますが、日本でも色々な楊枝が使われていたが木製なので現品がないので時代をさかのぼることが出来ません。 ・楊枝の材料を育む風土 日本では昔から、楊枝は楊柳(ようりゅう)・黒文字・卯木(うつぎ)などの材料で作られてきました。東南アジアでも殆どが木や竹製の楊枝を使っています。 アジアは元来、緑を育む気候と豊かな大地に恵まれ、農耕文化が発達したため、楊枝の素材としても周りに多くある木や竹を利用していて現在も続いている。 インドのお釈迦さまが使われた楊枝も木製であった。 ヨ−ロッパでは歯につまった肉片を取るのには強い楊枝が必要でそのため楊枝の素材も水鳥の羽・ヤマアラシの針・野うさぎの骨・獣の角・象牙が多く使われていました。また、青銅・金・銀等もその強さゆえに楊枝の素材として使われていました。 日本では仏教の関係から肉食が盛んにでなかったため、動物の骨や羽根製の楊枝ではなく、木製の楊枝が一般的でした。 わが国は木の文化であり楊枝にもその文化が表れている。 農耕民族は楊枝の素材として木・竹・葦の穂等の植物的なものを多く使いました。食べ物の関係上、歯の表面の汚れを取ることが主な目的でした。 ・楊枝と各国の食習慣 ヨ−ロッパでフォ−クが食卓で使われるようになったのは、十五世紀頃です。それまでナイフで肉を切り、それを手で食べていました。 フォ−クが使われて来て人々は食べ物を刺して食べるようになった。パ−ティ等で多く出されているスナッやカナッペには、丸くて両端が尖った楊枝が フォ−ク代わりによく使われています。 このような丸い楊枝をカクテルピックといいます。 このカクテルピック、日本では食後の歯の掃除に日常的に使われています。 丸い楊枝で片方しか尖っていないのは世界中で日本だけです。 丸くて両端が尖った楊枝は日本では楊枝の製造過程で黒文字楊枝の普及品として卯木製の丸い楊枝が機械化により一般化しました。世界中の楊枝製造の歴史を見ても、丸い楊枝が平たい楊枝より先に普及したところはありません。 黒文字製の場合、歯に使う小さな楊枝(60mm)と和菓子等に使う大きめの楊枝 (75〜90mm)とは明確に区別していた。 黒文字製の小さな楊枝は手づくりのうえに先端は三方から削られていて歯に入りやすかった。 ところが卯木製の丸い楊枝は製造当初から、先端を刃物で削っていて、現在の楊枝と同じ丸い形だった。 この卯木製の丸い楊枝が普及品となった時以来、丸い楊枝が歯に使われるようになった。 大正12年頃、海外より入ってきた平楊枝は、その珍しさから、一時的に日本中に拡がつたが、丸い楊枝に慣れてきた日本人の間では受け入れられず、市場から姿をけした。現在、平楊枝をつかわないのは世界中で日本だけである。
・楊枝と儀式 「小笠原流躾方百箇條」に楊枝のことが取り上げられている。これを見ると楊枝が日常生活に深く根をおろしていることと、その使い方の重要性が感じられます。 楊枝について ・人前にて楊枝をつかう事・・・・・・・・・・・・・・・・・ 現在の歯ブラシにあたる房楊枝 ・人前にてやうじを似て歯を磨くこと事・・・・・・・・ ・人前にてやうじを似て舌をかく事・・・・・・・・・・・ ・やうじをくわへて人に物をいう事・・・・・・・・・・・ ・位なくして大いなるやうじつかう事・・・・・・・・・ 楊枝(爪楊枝)人に差し出す時の注意点 ・やうじは扇にても、はながみにても、すべて頭を我右になしてすぎよ。 楊枝も房楊枝同様に日常生活用具の一つとして使われていたことが分かります。 「都風俗化粧伝」の身嗜(みだしなみ)の部分に「朝起きては歯をよく磨き、楊枝をもて歯の間の滓(かす)を去るべし。また楊枝をふかくつかい、また、くせになりて無用の時にようじをつかう人あり。はなはだ歯を損じてあしし。また、楊枝にて舌の上の滓をなでさり、食事ののちは湯か茶かを口にふくみて歯の間に挟みたる食物の滓を吐き去るべし。歯ならびのあしき人は、ことに挟まり残るもの也」その内容は歯を磨くほうの楊枝が房楊枝で一方”ふかくつかって歯を傷める”とされているのが楊枝です。 房楊枝は、柄の中程を薄く削いで舌の掃除に使えるようになっています。 「三礼口訣」(食礼・茶礼・書礼)の食礼の項には、房楊枝と楊枝の使い方がしめされています。「爪楊枝はいつも懐中に持っているべきもの」だったことが分かります。 また、寛政五年(1793)「婚礼道具諸器形寸法書」にも楊枝について記述されている。婚礼道具の中には楊枝・楊枝台・楊枝箱・楊枝筥(はこ)・楊枝入れが描かれており、各々の寸法も詳しく書かれている。 |
房楊枝に使われた材料
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『楊枝の産業』 ・楊枝産業の始まり 江戸も後期の頃になると次第に楊枝を使う人々が増え、店先での製造だけでは需要に応じきれなくなってきた。やがて材料の産地でも製造されるようになってきた。楊枝産業が発達した場所は、いずれも楊(ヤナギ)や黒文字の原木が近くに豊富にあり、かつ消費地に近い所という点で共通していた産地が河内長野であった。 河内長野は明治の初めには近隣に多くあった黒文字や卯木(うつぎ)の原木を大阪の製造家に販売していた。 河内長野での楊枝産業は、明治十三年頃に「黒文字楊枝」の製造に着手したのが初めです。同十六年頃、大阪より二人の職人を招聘し、ここに初めて楊枝の本格的製造に着手した。黒文字に続き卯木による製造を始めたことにより農家の副業としての産地の基礎が築かれ、本格的に「つまようじ」の製造に着手し輸出する一大産地となった小主。 身近にある材料、製造技術の導入、消費地の近接という恵まれた条件にありそれに加えて当時の農家の副業は主に木綿織りであったがこれに比べて楊枝作りは作業が簡単で資本を要しないので次第に増加したる黒文字の仲買業者は農家に黒文字の木を配って楊枝に加工させ、それを集めて楊枝業者に販売していた。 従って、楊枝業者は最初からメ−カでなく産地問屋だった。最初の頃は製造は出来ても販売に関して適当な機関がなく産業は一時停滞した。その後、需要の増加とともに、粗製乱造のため一時商況不振となった。 輸出も途絶え生産額もむ激減しましたが同業者が集まり妻楊枝販売組合を結成し、品質向上に努め楊枝産業は順調に回復していった。河内長野の販売量が増えるにつれ、近隣だけではその需要を満たせず他府県から原木や製品を購入し販売の窓口的役割を担うようになり河内長野は次第に楊枝の集散地となっていった。 広栄社の創業者の稲葉由太郎は大正六年に三重県鈴鹿郡関町で関勢社を設立、卯木に似たキブシ、マメブシで丸楊枝(卯木楊枝)を作り河内長野へ販売を初めました。その後、三重県での大同団結と河内長野の仕入れの一本化の構想をまとめ、河内長野の業者を説得しその仕入れ機関となる日本妻楊枝株式会社を設立、続いて三重県の製造業者が合同出資して大正十年、東洋妻楊枝株式会社を設立した。このようにして三重県での丸楊枝の製造と河内長野の販売との分業体制が確立された。これにより河内長野は一大集散地として供給の心配なく販売にあたり、一層他の地方を凌ぐ特産地としてその名を高めていった。 ・楊枝の産業革命 順調に進むかに見えた楊枝産業でしたが、大正12〜13年になりアメリカから白樺製の、「平楊枝」が安く輸入されコスト面で競争できず、資金力がせ乏しく米国機械の導入が難しいため衰退、このため各地の楊枝工場が大打撃を受け閉鎖に追い込まれた。 この難局を打開するため、三重県の東洋爪楊枝(株)、(現「広栄社」)が大正十二年アメリカ製の製造機械※「両端削り機」※「成形機」を一台ずつ二台を購入した。 三重県での製造に着手の予定であったが、河内長野の業者の製造の強い要請を受け機械を河内長野に設置し米国産機械の技術原理を導入し模倣改良し、地元の鍛冶屋の協力を得て、国産機械による自動化、大量生産を可能にし日本で初めての※白樺による機械生産を開始した。 この白樺の機械生産の成功により他の産地の比重が低下し、河内長野が次第に楊枝の独占産地になっていった。・・・ ヨ−ロッパでは木を使った機械生産は発達しなかった。それは水鳥の羽根の楊枝が普及していたためです。 楊枝の材料となる白樺が多く見られる北欧のデンマーク、スエーデン、ノルウェー、フィンランド等他に工業国のドイツ、スイス、イタリアでも木製楊枝の製造技術は発達したが、我が国のような地場産業としてまとまった形では進展しなかった。 それに対してアメリカでの楊枝の機械生産は歴史があります。 現在のような機械生産の楊枝のル−ツは※アメリカの「平楊枝」なのです。この出来事は、材質が金属や象牙から木製に移行したという点でも画期的でした。 わが国では江戸時代は黒文字の楊枝作りが、大正時代には卯木の木で道具から次第に簡単な機械を使って作り始めていました。 このような木製の楊枝作りが長い歴史をもって産業にまでなっていたのは世界中でも日本だけでした。他の国々では機械化による「平楊枝」作りが始まったのですが、わが国だけは「丸い」楊枝が「平楊枝」より先に機械を使って作られていたのです。その結果「丸い」楊枝が四角い黒文字に代わって普及品として使われました。 「平楊枝」より先に「丸い」楊枝が普及したというのは日本だけです。 このため、わが国では”楊枝は丸いものだ”という固定概念が強く定着し世界中で唯一「平楊枝」の普及しない国になったのです。 その結果、欧米のような「丸い」楊枝と平楊枝の使い分けが定着せず、丸い楊枝だけを歯にも料理にも使うものだという認識が定着してしまった。
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・丸軸生産の登場 丸軸の製造工程として、白樺は大変背の高い木で、山から切り出されるのは直径約15〜30センチ、長さ約2メ−トル位を伐りだします。それを約30センチに切断して煮沸します。それを短冊状に切断し、乾燥します。 その後、製造工程でカッタ-と呼ぶ機械で丸軸を作ります。このカッタ-こそ日本独自の製法なのです。河内長野の業者の間では、白樺製の丸い軸を作るのが長年の夢でした。そして、試行錯誤の末に昭和二十三年にその原型となるカッタ-を開発しました。2.5ミリの板から2.2ミリの丸軸を削り出すカッタ−方式こそ丸軸を作るうえで最も合理的で経済的な方法なのです。これは当時、河内長野市に約20社あった業者間の切磋琢磨の結実でもありました。 平楊枝の製造方法はアメリカから導入しましたが、この丸軸の加工方法は日本で開発されたオリジナルの方式です。 この方法で丸い楊枝を安く作ることが出来るようになった。 この日本のカッタ−方式がいかに優秀かが分かります。日本式は約30センチのヒゴ状のものを独自の刃物で一度に十六本を作ってしまう。それに対して平楊枝の製法で先行したアメリカも、四角な角棒をまず作って、一本ずつ加工しますから、生産性においては日本方式に大きく後れをとった。 優れた方法が日本の河内長野で開発出来た理由は資源の少ない国であるから木を無駄にせず徹底的に有効利用したことと楊枝業者が集まる※地場産業としてのノウハウの蓄積があったこと、さらに業者間の切磋琢磨が技術のレベルを引き上げたことでこれらの理由があったからこそ競争力を持ち長く輸出を続けることが出来たのです。 特に、昭和30年代の後半には売上高に占める輸出額の割合は95%にも達するようになった。製品も平楊枝だけでなく、丸楊枝、花楊枝、旗つき楊枝、三角楊枝、ノベルティ用など多岐にわたっていた。 昭和46年のドルショックで円高が加速してきた。 ・楊枝産業新時代 昭和初期に輸出を始め戦後は製品の80%以上を海外市場へ販売してきたが、どこまで進むか分からない円高は存立の基盤を揺るがすものでした。コストダウンや生産の合理化により対応しょうとしたがそれにも限度があった。このため国内市場に目を向けざるを得なくなった。 しかし、国内市場は河内長野の同業者が網の目のようにカバ-しており、入る余地がなかった。その後、中堅歯ブラシ企業から歯間清掃用具のシリ−ズを販売したいので三角楊枝だけでなく、糸付き楊枝も作って欲しいという依頼を受けた。糸付き楊枝は始めてのことなので、繊維の専門商社の助言を受けて、成形機で一体成型して完成させることが出来ました。 しかし歯ブラシメ−カ−から円高で値下げを相次いで求められ、ついには全品輸入品に切り替えられてしまった。その後、円高が進み国内市場の開発が急務となつてきた。 三角楊枝はよくゴミがとれると評価され、その結果「丸い楊枝は料理用に歯には三角楊枝」と欧米における使い分けを基本にコンセプトとして、三角楊枝に「クリアデント」という自社ブランドを設け販売を展開することとなった。 その後、同社の販売先は薬局、薬店のほか生協が主要ル−トとなった。その後、歯間ブラシを完成させた。 現在はハンドルとワイヤ-を一本化して使いやすさを一層高めた。 その後、広栄社は北欧タイプの「デンタルピック三角ようじ」に加え、丸いつまようじ゜を使い慣れた日本人にも馴染み易いように丸軸の先端を三角に削った独自の形成を持つ世界発の「歯間ようじドクタ-ピック」を平成16年に『産官学連携』で開発させた。 |
![]() 三角ようじ ![]() ![]() |
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『つまようじ資料室』 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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@黒文字ようじ製造工程の写真・道具 A卯木ようじ製造工程の写真 B白樺ようじの製造工程の写真・機械 C大正時代にアメリカより輸入した製造機械 D世界50ヵ国以上の過去・現在のつまようじ E弊社の過去・現在の輸出商品 F楊枝の原型である歯木 Gその歯木から抽出した成分を含んだ練歯磨き H世界のめずらしいつまようじ I現在国内で生産されているつまようじ J弊社の国内向け製品 K国内の過去・現在のめずらしいつまようじと容器 L黒文字の細工ようじ(雨城ようじ) M浮世絵 房楊枝を使う吉原美人(国貞作)等 Nつまようじの歴史・パネル展示 Oつまようじの由来・パネル展示 P 工業統計・パネル展示 ・・・・・・・・・・・ |
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古代インドの「伝承医学書」 「伝承医学書」の一部を引用しました。 古代インドの伝承医学のことをア-ユルヴェ-ダ【サンスクリット語のアーユス(生命、長寿)とヴェーダ(科学、知恵)が語源】といいますが、この中に歯木のことが出てきます。このア-ユルヴェ-ダが確立された時期はおよそ紀元前2000〜3000年ころでこんなに歯木が使われていました。つまりお釈迦さまの時代よりもっと前から歯木は使われていました。これを伝承している主な原書に『スシュルタ』や『アシュタ−ンガ』等がありますがその中に歯木のことが詳しく書かれています。 『スシュルタ』=(枝を歯ブラシとして使う植物)歯木のことが詳しく述べられている。 ・苦味で最も優れているのはニンパ(ニ-ム)であり渋味ではカディラが、甘味ではマドゥガが、辛味ではカランジャが優れている。 ・歯磨きの利点として口臭・痰を取り除き、食物の味覚を増し、食欲不振を除き、精神を新鮮にする。 ア-ユルヴェ-ダでは使う人の体質によって歯木の使い分けが出来るように素材の味で分けていた。 ・柔らかいブラシで歯を一本一本磨きなさい。 ・歯ブラシ用の木の太さは小指の太さで真っすぐなもので柔らかく節がなく虫などの食っていないものを用いる。 ・歯を清潔にすることは食物の味をよくし食欲を昂進し精神に喜びを与える。 『アシュタ−ンガ』 ・朝起床した時と夕食後には渋味、苦味をもつ柔らかい先端をした小枝で歯を磨きなさい。歯肉を傷つけてはならない。 ・朝起床した時と食後には渋味、苦味をもつ柔らかい先端をした小枝で歯を磨きなさい。歯を磨く時には、歯肉を傷をつけてはならない。 ・朝歯をよく観察しながら、前から奥へ、下から上へ歯を磨きなさい。 インドではニ-ム(ニンバ)、バブ−ル等の木の枝使っていました。 仏教が中国に伝わった時、同じ木がなく歯木に楊柳(ようりゅう)の木の枝を用いた事から「楊枝(ようじ)」という言葉が生まれました。 |
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