中世19


私年号を使用し、領主支配に抵抗した小西見郷の村民

わがまち歴史散歩

葛の口から臨む神ガ丘の集落

写真

 河合寺から国道310号を観心寺方面に少し行きますと昇條坂という急な坂があらわれます。この坂を上りきったところが、葛の口というところです。現在は、大きな三差路の交差点になっています。ここから、南西に下がった石見川の谷とさらに延命寺のある支流の谷は、現在の町名では神ガ丘です。しかし、明治時代まで鬼住村と呼ばれていました。
 さらに、この鬼住村は、寛永8年(1631)ころの文書をみますと小西見村(おにしみむら)と書かれています。そして、小西見村は、古くから観心寺の支配する村の一つでした。
 元慶7年(883)の「観心寺勘録縁起資財帳」の冒頭にある観心寺領の範囲を書いている部分に「西限小仁染(深)谷」という地名が見られ、「おにしみ」と読むことができます。そして、観心寺に残る嘉元4年(1306)12月21日(正式には徳治元年)の文書に「在河内国錦部郡観心寺御庄小西見郷内」の地名が見られ一番古いものです。さらに、永徳2年(1382)の文書には「観心寺御領内小西見村字葛野…」のように葛野という地名もあらわれます。  おわかりいただけたと思いますが、鬼住村の村名は、この「おにしみ」が転じて江戸時代のはじめに「おにすみ」となったものです。
 この小西見郷(村)に関する観心寺の文書の中に、当時の郷民達の政治的立場を示すものがあります。その一つは、先ほど出ました永徳2年の文書です。この時代は、南北朝の終わり頃です。地図ご存じのように観心寺は、南朝に属しています。その領内が小西見ですが、永徳の年号は北朝の年号です。この北朝年号の使用は、小西見だけでなく同じ観心寺領の下岩瀬でもみられます。おそらく、南朝方の勢力後退を察して郷民達が使用したと思われます。しかも、観心寺は、この北朝年号の使用を黙認していたようです。 もう一つの文書は、南朝元号の元中4年(1387)に相当するものです。この文書には永宝元年の年号が入っていました。この年号は私年号と呼ばれるもので、正式に朝廷が決めて全国で使われたものではありません。私年号を使用することによって権威に従属しない姿勢を示したのかもしれません。  この後、応永27年(1420)には小西見郷の人が山林の伐採の件で、寺僧と争ったりしています。
 中世以降の郷村の発展は、郷村民の結束力を強めてゆきます。文書の年号の変化は、小西見郷の人達の一方的な領主の支配に対する抵抗ではなかったでしょうか。


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