近世7


真言宗の高僧、浄巌が建立した名刹・延命寺

わがまち歴史散歩

多くの参拝客でにぎわう
延命寺の山門

写真

 寛永16年(1639)、錦部郡鬼住村(神ガ丘)に一人の高僧が生まれます。幼名は不明ですが、字は覚彦、僧になって覚彦雲農、後には浄厳と改名しました。  彼は、幼少のころから秀才であったことが伝えられています。母の乳を飲みながら梵字や漢字を覚えたと当時の村人が噂したことが記録に残されています。10歳にして高野山にのぼり、24年間修行した後、寛文12年(1672)に鬼住村に帰ってきました。そして如晦庵を建て、翌年に浄厳と改名しました。延宝5年(1677)5月には延命寺を建立しています。さらに、延宝7年には八尾教興寺も譲られています。
 彼は、各流派に分かれている真言密教の修行方法を統一しようと勉学と修行に励みました。それとともに、真言宗の布教にもつとめ近郷の村々を説法して歩きました。そして、近郷だけでなく、尾道(広島県)や四国高松あたりまで出かけ、人々を教化してゆきました。説法だけでなく、人々の難儀を見て寛文12年に地元で、延宝6年には四国善通寺で雨乞いの祈祷を行って成功しています。
地図  このような浄厳ですので、その名は江戸にまで知られていました。そして多くの民衆だけでなく鬼住村の領主本多忠恒、高松の松平頼重などの諸大名も帰依しました。その大名の中でも将軍綱吉の側用人柳沢吉明は、屋敷内に智宝庵を建てて彼を住まわせました。そして元禄4年(1691)には、柳沢吉明邸を訪れた将軍綱吉に謁見しました。その後、しばしば将軍に進講し将軍から厚い信仰を受け、江戸湯島(東京都文京区)に土地3千500坪、金300両の寄進を受け宝林山霊雲寺を建立しました。彼は江戸でも熱心な布教活動を行いました。そして民衆を教化する一つの方法を考え出しました。それは結縁灌頂とよばれる儀式です。目隠しをした人が、諸尊仏が書かれた曼陀羅の上に花を投げて落ちた所の仏と縁を結ぶ儀式です。このことにより仏を身近なものとし、信仰に入りやすくしました。この方法が人々に受け、30万人余りの人々が参加しました。そして、古川柳に「目隠しは覚彦比丘が元祖なり」と詠まれたり、江戸名所図絵の中の俳句に「灌頂の闇よりいでて桜かな」と詠まれています。それほどに、彼は元禄時代の江戸市中で真言宗の高僧として名をはせました。
 そして、延命寺に帰ることなく元禄15年64才でなくなり、幕府から谷中(東京都台東区池之端にある妙極院の境内)に1千300坪の菩提所をもらっていましたのでそこに葬られました。


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