近世28


新田開発のために築造された寺ケ池
わがまち歴史散歩
寺ケ池築造の偉業を讃えた碑
(南貴望ケ丘)

 昭和56年に滝畑ダムが築堤されるまで市内最大の用水池は、木戸町と小山田町にまたがる寺ケ池でした。この池は、江戸時代初めの慶安2年(1649)に市村新田(現市町・木戸町一帯)開発の為に築堤されたものです。この時代は、土木技術の発達による治山治水技術が向上しており、それが新田開発の拡大をもたらしました。
 その結果、戦国時代末期から慶安・寛文期(1648〜1673)にかけては、全国で新田が3倍、石高数では5割増となりました。
 寺ケ池の築堤と市村新田の開発は、上原村の大庄屋中村与次兵衛勝直が支配領主であった当時の膳所藩主石川氏に願い出て実施されたものです。与次兵衛は、この新田開発にあたり、上原の家を嫡子の多郎兵衛に譲り、自分自身は次男とともに新田に移り住みました。この時、屋敷地・年貢などの諸役を免除されました。承応元年(1652)5月、石川氏から替わった膳所藩主本多俊次から、河内飛地領郷代官役を命じられ年貢が免除されました。与次兵衛勝直は、老後出家して裕和と号しましたが、寛文10年(1670)7月に病死しました。裕和は、古野町の極楽寺を創建したとも言われています。跡を継いだ与次兵衛勝長は同じく郷代官を命じられ、以後明治の廃藩まで膳所藩の代官役を世襲しました。
  築堤された寺ケ池は、もともと小山田丘陵の谷部、小山田村と市村の村境にあった小さな寺ケ池を丘陵の谷部の出口を閉めきり拡張したものと言われています。その結果、東西約108メートル、南北約650メートル、深さ約29メートル、面積は約9.6ヘクタール、周囲約2.2キロのため池が出現しました。
  池の水は、日野村で井関を造り、延々約14キロを小山田丘陵の南側斜面に水路を開いて引いています。この工事は、難航を極めたと伝えられています。
  池の拡張で、池敷(池の底地)部分は膳所藩領で1.4ヘクタール、隣接する旗本の三好氏の小山田領約1.1ヘクタールになりました。このため、膳所藩は三好領に池敷地の代替地として、市村の四ツ鉤樟(現楠町東)で3割増の土地のうえ約0.12ヘクタールを加増して約1.6ヘクタール渡しています。膳所藩は小山田村庄屋衆に代替地の条項以外にも、池水の小山田村への分水や増水による田畑への影響についての補償や修復について証文を入れています。
 この池の築堤により開発した新田の石高は約615石となり、開発前のこの地の取れ高の100倍になりました。


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