わがまち・河内長野の歴史
河内長野地域学講座Ⅱ

 

平成24年12月7日(金)~平成25年3月22日(金)に全10回、弥生・古墳時代~昭和・平成時代を講師10人によるくろまろ塾本部講座が、市民交流センター3階大会議室で開催されました。定員100名であったが、電話受付開始後、申込みが殺到し早々と定員に達して、市民の河内長野歴史講座への関心の高さがうかがえます。また毎回の講座は欠席者も少なく会場が聴講者でいっぱいとなり、熱気があふれていました。その一部をご紹介します(講演要旨)。

  
さらに東大阪で作られた土器、富田林市の喜志遺跡製の石器、和歌山製の石包丁、その他にゴミを捨てる専用の穴後や方形周溝墳も出土した。南河内南部地域の拠点集落(母ムラとも言う)であり、上記の高野街道沿いにある母ムラと物流し、河内長野からは田圃や水路を作る矢板や住居、木棺などに使う木材を供給していたものと推定されている。
6世紀末~7世紀になると台地状の土地に田圃が作れるよになり、それまでは人が三日市周辺で住んでいたのが、小塩、加塩、尾崎、高向に人が住み始めて集落ができる。
古墳時代前期の前方後円墳である大師山古墳が1つある。被葬者は古墳の形式や副葬品から官僚として畿内政権に仕え、この周辺を治めていた豪族の首長と考えられます。中期古墳がない。これは多分、古市古墳群内に作られたと考えられています。後期古墳の1つとして横穴式石室の三日市10号円墳があります。被葬者は古墳形式や副葬品から官僚として畿内政権に仕え、この辺りを治めていた豪族の首長と考えられています。その後、薄葬化思想が反映されて古墳自体も徐々に小さく、副葬品も簡素になった大日寺古墳などが作られていく。
644年に唐が高句麗へ征討軍を派遣するなどで朝鮮半島は不安定情勢。  日本国内では、大陸の脅威に備え、主権の所在が不明確な政治体制を解消するために大化の改新のクーデターが起こる。
◆玄理の生涯:
  高向漢人玄理、高向史玄理、高向博士黒麻呂とも書かれている。史・博士は文(ふみ)人(ひと)→縮めてフヒト・史であり、書物を読み書きする役職の官僚であった。。608年に小野妹子の遣隋使に従って留学。640年に請安と共に帰国。大化元年(645年)に僧旻と共に国博士に任命される(国博士は国政の上級レベルの政策立案をする役職)。大化2・3年(646・647年)新羅との外交交渉をまとめる。654年に遣唐押使として唐へ派遣される。
◆玄理の業績:
東アジア情勢、日本国内の政情不安定な時期に外交、内政に手腕を発揮した。国博士として僧旻と共に大化改新時に中央官制を立案、施行した。新羅との外交交渉で日本への従属を認めさせ、後の武烈王を伴って帰国した。
◆道昭:遣唐留学生で玄奘三蔵に可愛がられ、師事を受ける。帰国後、諸国周遊し社会事業をする。道昭と行基は師弟関係。薬師寺の刺繍仏の開眼法要をし大僧都に任命。本邦初の現代風火葬される。
◆役小角:修験道の聖人として崇められる。伊豆に流罪。『日本霊異記』にある伝説での道昭と新羅で出会う。
◆行基:道昭に師事した。49院を建立。諸国周遊し社会事業をする。大仏建立の勧進を行い大僧正に任命。
◆役小角、道昭、行基の3者の共通点
 ❶出自が河内、大和で、金剛山を挟んでの地域の豪
  族である。
  役小角は加茂氏、道昭は船氏、行基は高志氏(高石市周辺の豪族)
  地域の共通性は河内、大和の地域
 ❷生きた時代は奈良時代の中・後半期である。
 ❸役小角は新羅で道昭に出会い、道昭と行基は師弟関係
 ❹行基の社会事業は道昭の影響・・・道昭の考えが行基を通じて達せられた。
 ❺いずれも民衆の支持を得ている。
 ❻道昭、行基は共に天下周遊して、あちこちで社会事業した後、勅命で都に帰っている。
叔父の阿刀大足は桓武天皇の皇子・伊予親王の家庭教師である。この人に15歳の時に論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。
延暦11年(792年)の18歳の時に長岡京の大学寮(官吏養成校)へ入学し明経道(法律の解釈、文章力)を学ぶ。
延暦12年(793年)の19歳に山林修行で峰々(吉野、大峰、室生、阿波の大瀧岳、室戸岬の御厨堂)に入って瞑想などの修行をする。
延暦16年(797年)三教指帰(さんごうしき)を表し、父や周りに対して自分の出家を説得するために書いた。
延暦23年(804年)入唐する直前に東大寺戒壇院で得度受戒して国家認定の僧となる。第18回遣唐使の留学僧(留学期間20年予定)として唐に渡る。
延暦24年(805年)唐の長安・青龍寺の恵果から阿闍梨位の潅頂を受け、遍照金剛の潅頂名を与えられる。恵果から真言の相伝を受け、2年ほど修行する。
大同元年(806年)に帰国するが、太宰府に留め置かれる。
大同4年(809年)に嵯峨天皇が即位して空海は都の近くの槙尾山寺へ移る。7月に太政官符で入京する。
弘仁7年(816年)に嵯峨天皇に願い出て高野山を勅許される。都から遠く離れ政権からも距離を置き、修行に専念できるよう高野山を選んだ。
弘仁8年に弟子たちを高野山極楽あたりへ派遣して開創に着手する。
弘仁9年(818年)空海自身が高野山へ登って指揮する。
弘仁10年(819年)に結界を結んで伽藍建立に着手する。
弘仁7年(816年)に嵯峨天皇に願い出て高野山を勅許される。
弘仁8年に弟子たちを高野山極楽あたりへ派遣して開創に着手する。
弘仁9年(818年)空海自身が高野山へ登って指揮する。
弘仁10年(819年)に結界を結んで伽藍建立に着手する。
弘仁14年に東寺(教王護国寺)を賜る。東寺と高野山が真言密教の拠点になる。
天長5年(828年)に綜芸種智院(しゆげいしゆちいん) を開設し私設の教育施設を作る。
承和2年(835年)金剛峯寺が定額寺(国家から補助金が出る寺)となる。
承和2年3月21日に満60歳で入滅する。
延喜21年(921年)に醍醐天皇から弘法大師の称号を賜る。
◆河内長野の寺院と空海
☆観心寺:大同3年に如意輪観音を本尊とする星曼荼羅を勧請。東寺から高野山への中継拠点とする。
☆延命寺:地蔵菩薩を刻んで堂を建立して祀り 、宝幢寺と称した。
☆金剛寺:巡錫地としての記録しか残っていないが、正御影供が有名。
◆河内長野と空海伝承
☆四釣樟(よつくのき)・与津・与通の名称と柚子味噌の伝授
☆松明屋と粽の伝授
☆生薬の石見川草の伝授
☆清水の井戸、延命寺、石見川、石仏の清水伝承
☆里芋、帯解の伝承
河内長野には多くの大師伝承が残っているのは、槙尾山寺に近く、修験道の行場が沢山あり、高野街道が通っており、高野聖が弘法大師のありがたい話しを広げたのだろう。
②関東の御家人説:楠木正成は得宗の被官・御家人、家来であった(高野山春秋編年輯録。観心寺要録。鎌倉北条九代記)。③散所長者説。東條川沿いでしんしゃを採取して都に納めたり金剛砂を採取、凝灰岩などの鉱物を都に運び売る仕事をしていた。
◆鎌倉幕府から信頼された正成が何故、悪党になったか
元慶元年の臨川寺領目録によると、「臨川寺の所領・和泉国若松庄を後醍醐天皇が望んだ僧正道祐に与えた。これに臨川寺が抗議すると、天皇は臨川寺にあっさりと返還した。この時に正成が天皇の命に逆らって和泉国若松庄を横領した。そのことから時の政権や天皇の命に逆らった者を悪党と呼ぶ」。
◆元弘動乱のはじまり
観心寺文書によると、元徳3年の春に観心寺周辺から石川郡一帯ですごい動乱があった。正成が若松庄を横領したのを六波羅探題・和泉国守護代が討とうとした。その時に河内国石川郡.錦織郡まで合戦が及んだ。これが南北朝内乱のはじまりとなる。元弘元年の笠置合戦が1ヶ月間続き、翌年3月に後醍醐天皇が負けて隠岐へ流される。この後6年間続く内乱は既に石川郡、錦織郡、和泉国の若松庄の一帯で始まっていた。
◆楠木合戦:
和泉・摂津・河内 の悪党ネットワークが結集して楠木合戦が展開された。  上赤坂、千早、吉野で同時に合戦が始まる。元弘3年2月2日に矢合わせが赤阪ではじまり、千早の合戦で終わるが最後まで籠城して戦う。5月7日に六波羅探題が滅亡、5月22日に鎌倉幕府も滅び鎌倉時代が終わる。このように赤阪、千早、吉野で同時に合戦をはじめるのが楠木の戦術である。敵を味方のエリアに誘い込んで、あっちこっちに城を築いて 、一斉に蜂起して敵を囲い込むのが悪党合戦の特徴である。元弘3年は、2月が閏月であるので千早合戦は4ヶ月続いた。この時の正成側の戦力は1500位で、相手は8万~10万の戦力であった。
この家督を巡る内紛が、天正3(1575)年の信長による高屋城廃城に至るまで続く。この争いの中で河内国南部の要となる烏帽子形城が攻守に重要な役割をはたした。
◆信長勢力の河内浸透・支配
 天正3年(1575年)に遊佐信教が昭高の義兄である信長によって滅ぼされた。(高屋城の戦い.信長によって高屋城は破却された)。その後河内は信長の家臣である佐久間信盛の統治下におかれ、畠山氏の旧臣の多くは信盛の指揮下におさまる。
 天正4年(1576年)、織田信長の朱印状に反して徳政を拒絶する金剛寺に対し、塙直政・松井友閑(信長の家臣)が、烏帽子形城在城の上使を通してこれに従うように命じる。(金剛寺文章/塙直政・松井友閑上使連署折紙)
◆烏帽子(形)衆の活躍:  畠山氏に使えていた烏帽子形城周辺の国人・土豪衆( 烏帽子形衆)が、天正4年の大坂(石山)本願寺や天正9年の高野山攻め、天正10年の甲斐国武田氏攻めの後詰めで参戦して活躍する。
◆キリスト教が1549年にフランシスコ・ザビエルにより鹿児島に伝来。 やがて河内にキリスト教が広まる。四條畷市・砂や岡山や大東市・三箇、東大阪・若江と八尾の各大名や多くの領民がキリシタンになる。
◆烏帽子形城のキリシタン: 天正10(1582)年には三人の領主が統治し、その内の2人はキリシタン大名で300人のキリシタンを領民に持ち、領内に壮麗な聖堂を建てるための材料を集めている。烏帽子形城の大身・伊智知文太夫(洗礼名:パウロ・ポアンダイン)が堺の家数軒を寄進して仮聖堂を設ける。ビジタドールが烏帽子形城を巡回し歓迎を受けた。  また天正3(1575)年に宣教師フロイスが烏帽子形城を訪れる。
❷豊臣秀吉の時代の河内
◆河内支配・紀伊国平定
 本能寺の変後、羽柴秀吉は清洲会議の結果、河内を領国にした。  天正11(1583)年に秀吉が中村一氏を紀伊国根来寺の押さえとして岸和田城に配置。  天正12(1584)年に秀吉の命令で中村一氏が烏帽子形城を修築:直線的で大規模な堀・土塁に改築、曲輪を大型の方形にする。  天正13(1585)年、3月20日の和泉の戦いで開戦・23日根来寺攻略・24日粉川寺炎上、4月1日南紀制圧、4月16日高野山降伏、4月22日太田城開城で終了し、紀伊国を平定。この意義は 中世を象徴する宗教的な民衆武力と兵農分離の近世秩序が、真正面から戦いあった。ここに寺社勢力は消滅し、惣国一揆は潰え、武家による一元支配の近世が始まる。
◆秀吉のキリシタン信仰弾圧と烏帽子形城
 天正13(1585)年に烏帽子形城のキリシタン領主やキリシタンたちは無事(セスペデスよりの送状)。天正15(1587)年に秀吉の禁教政策により烏帽子形城主は没落(日本諸事要録補遺・補遺2要録」の4,5章)。文禄元(1592)年に烏帽子形城の教会はすでに破壊されている。(1583年日本準管区内教会目録)
【終わりに】烏帽子形城は元和元(1615)年の「元和の一国一城令」で廃城になる。烏帽子形城の重要性は南河内の拠点の1として紀伊国からの兵力を抑えるため。及びキリシタンが河内に広がるのに一役かった。
河内長野市域の領主と村:  江戸時代は膳所藩が一番多くの所領を持っており、狭山藩が2番目である。 一つの村が2人の領主によって分けられ支配される相給の村が多く、直ぐ隣り村が違う藩の所領であり、非常に入り込んだ複雑に錯綜した支配構造である。本市だけでなく経済の中心地・上方や本拠地の関東に大きな大名を置かないで、むかし徳川の家来であった小さな親藩を置き、丸ごと全地域を1人の大きな大名が治める地域と仕組みが異なる。領主は無城の大名(陣屋を構える)、旗本、御家人、寺社と複雑である。  江戸時代には領国地域・非領国地域の二つの所領構成の地域があり、本市は非所領地域で幕府領や譜代大名領、旗本領、寺社領が錯綜した相給村が多く一つの国としてまとまっていない。  領主と幕府の二重の支配が行われていた。このような状況の中で奉行が重要な役割を果たしていた。
  領主による所領支配:所領内部で生じた問題の解決。年貢、訴訟etc.
  奉行による支配:相給村などのように他の所領間で生じ、一人の領主では対応できない場合、幕府(大坂町)奉行が問題の解決を図る。
◆領主による所領支配
 江戸時代の朱印状:全国の大名、旗本、御家人、寺社、公家などの領主に、将軍が代替わりする時に領地を保証するために、何石の支配を許すと記した文章のことで、これを領知宛行状という。これとセットで領地目録が出される。→領主による所領村支配の根拠。  その上で、藩代官から藩領の村々へ触書を出す。藩領村から藩役所へ届書を出す。
◆幕府奉行による国単位の広域支配
 各藩の所領支配を超えた河内の村々への通達を触書(国触)として出す。河内の村々から大坂町奉行へ願い事を訴願(国訴)として出す。藩間の調整、藩を超えた問題解決を図る。
◆【時代背景】1853年のペリー来航、翌年の日米和親条約をはじめとした5ヶ国との開国、4年後の日米修好通商条約をはじめ5ヶ国との不平等条約・治外法権の締結で国内産業の崩壊と下級武士の生活の逼迫する中で尊王攘夷論が興り、幕藩体制が崩れはじめた。1862年の生麦事件をきっかけとして薩英戦争、孝明天皇の攘夷決行の勅令による、米英と長州藩との馬関戦争が起こるが、いずれも圧倒的戦力差で薩摩や長州藩が敗北する。この状況下で尊王攘夷論が尊皇倒幕論へと変わっていく。
◆【天誅組のはじめ】  1863年8月13日に孝明天皇が尊皇攘夷の決行と大和行幸の勅令を発する。天皇行幸前に、中山忠光が大和へ入ろうと考えたのが天誅組のはじまりである。
◆【行程】8月14日に中山忠光一行が京都を発って淀川を船で下り15日に大坂土佐堀に達し、16日に堺へ行く。ここから西高野街道を通って狭山藩から甘山峠を越えて錦織・水郷邸に入る。8月17日午前2時頃水郷邸を出立して東高野街道を通って三日市の油屋で集結し、戦勝祈願のため観心寺へ行き、小深、石見川を抜けて千早峠を越えて大和・岡八幡神社に集まって、午後4時頃に五条・代官所に討ち入る。  一方、京都では8月18日に政変が起こり大和行幸・御親征延期となり、天誅組を支えていた長州藩と尊攘派の七卿が京都から追放される。長州藩の後押しで全国で討幕運動が蜂起する予定が消え、その先兵として五條代官を殺害した天誅組は味方がなく孤立する。100人ほどの天誅組は1万の幕府軍の攻撃をうけ、戦いながら十津川の奥へ逃げるが十津川千本槍は離脱し河内勢の多くは紀州藩に投降する。9月24日の最後の決戦で中山忠光は脱出して大坂・長州藩屋敷へ逃げ込む。
◆【天誅組メンバー】69人で18歳の中山忠光が主将、河内勢は20人で水郷善之祐、森本伝兵衛、長野一郎、吉年米蔵など多くの人たちが関わっている。
◆【天誅組の行程が河内国ルートを選んだのは】天誅組に河内国の人が多く参加し、武器や軍資金を調達しやすかった。また、主将の中山忠光の心中に楠木正成の存在が大きく、戦勝祈願すためにこのようなルートを採ったのではなかろうか。
 河内国の大庄屋、水郷善之祐、吉年米蔵、上田頼母が総てをなげうって討幕運動の天誅組に加わったのは、損得を超えた突き動かす何かがあり、また、楠木正成の存在が大きかったのではなかろうか。
 慶喜が寛永寺に謹慎、勝・西郷会談で江戸城無血開城。戊辰戦争・函館戦争が明治2年5月収束。
◆慶応4年1月17日天皇親政の下に三職七科制の設置。同年3月14日5カ条の誓文を発す。同年4月8日に政体書を発表し、太政官に政府の権力を集中、3権分立制、立法に議定官、司法に刑法官、行政に行政官を置く。行政に行政審議、会計、軍務、外国を置く。
◆同年7月11日江戸を東京に改名。同年8月27日に明治天皇即位。慶応4年9月8日を明治元年に改元し、一世一元制を施行。明治2年に東京遷都する。
◆同年6月17日版籍奉還し、藩主を治藩事に任命。二官六省制度に改め、神祇官と太政官を置き祭政一致とした。太政官の下に大臣・大納言・参議の3職を置き、その下に弁官を置く。3職の下に6省(民部・大蔵・兵部・刑部・府内・外務)を設ける。公議所を集議院に改名し各藩の意見を聞く。また工業を興す工部省ができる。治安維持のために薩摩・長州・土佐の藩兵を政府直轄の親兵にした(三藩献兵)。
◆明治4年7月14日廃藩置県が行われ3府302県が3府72県に減った。太政官制が制定。太政官が正院、左院、右院の三院制になる。正院に太政大臣・左右大臣・参議が置かれ、太政官の下に8省が置かれる。
◆明治4年11月12日~明治6年9月13日に岩倉具視を大使とした遣欧使節団を派遣する。目的は条約改正の延期交渉と国内体制の改革・整備のための調査である。
◆使節団と留守政府との間で協定を結ぶが、留守内閣は文明開化と四民平等の政策を積極的に推進する。三権分立と司法制度の近代化、徴兵制や学生制度の改革で留守政府内での不一致が生じる。
◆帰国後の使節団と留守内閣との台湾、朝鮮に対する政策の違い、地租改正への庶民の不満等で、西郷隆盛や板垣退助らが政府を離脱する。西南戦争が起こり政府軍が圧倒的な軍事力差で勝利する。政府への批判は軍備でなく自由民権運動へ移る。
◆税制改革やインフレーションで立憲体制の改革機運が高まると共に民権運動が激化する。条約改定問題と絡んで民権論と国権論が興る。憲法の制定、国力の強化を図った結果、日清戦争に勝利し、不平等条約改正に成功する。また国内体制の近代化が図れた。その後に日露戦争に勝利することで、国家として列強諸国に認められて仲間入りできた。
情報化は昭和末期から今日まで益々発展を遂げている。自由主義経済が明治20年代から始まるが、西欧に追いつけ追い越せと言う事で規制をしてきた。戦後は政治がいろいろ干渉しながら経済発展を遂げてきた。最近、新自由主義、規制緩和がいわれ社会が変わりつつある。規制緩和で郊外に大型出店が続き駅前商店街が廃れるという現象が大きな社会問題となる。英国の経済学者アダムス・スミスが、国防・公安維持以外は市場経済にまかせた自由な経済発展を提唱したが、社会格差が生じたので規制を加えるようになった。
◆様々な社会問題に政治が関与した。経済発展目標を掲げ財政のばらまきが生じ、財政の悪化や赤字国債が増加し財政再建問題が顕在化し、大きな政府と化している。一方、財政投資を緊縮して財政再建を行うよう小さな政府を目指す政策を図るが、デフレ脱却と景気浮遊を図る社会要請では小さな政府を目指せない。金融緩和政策による市場へ資金供給が行われ大きな政府となっている。インフレ政策で国債の実質的な価値の低下を図ろうとしているが、ハイパーインフレが懸念される。このような政策をとればとるほど国家財政が悪化するなど国家の政財運営が難しい時代である。  このような世情で自治体の昭和の大合併、平成の大合併や再編の意義を問う。
◆明治に大合併が行わた。
 区町村編成法・府県会規則・地方税規則の三新法の制定で明治8・9・10年の三年間で町村合併が盛んに行われた。自然村(部落)が合併して新たな行政村(合併村)ができ、町村数が減少したが、明治12~15年の3年間で町村の分離が多く行われた。
明治22年に自治体としての町村の自治能力の拡充・国政委任事務の遂行のための地方行財力の強化のために、約300~500戸単位に再編成し、町村数を約5分の1に減少した。
◆昭和の大合併:
 昭和28年に組織運営を合理的・能率的にし、住民福祉を増進(学校・警察・消防などの経費を合理化・能率化)のために町村合併促進法で人口8000人以上を標準自治体規模とし、特に大阪府は山間部で9000人以上、平坦部で1万4000人以上を指示した。さらに人口3万人以上と都市形態(平坦部分が60%以上必要)を市制定条件とし、その結果全市町村数が3分の1に減少した。この時に河内長野町と5か村が合併して河内長野市が成立した。
◆平成の大合併
 分権時代の行政体制の強化、財政危機、少子高齢者社会の対応のために、合併特例法を作り、平成11~17年で、人口1万人以上を規模として市町村数を1000を目指した。特例債の新設、交付税の優遇措置のアメと地方交付税の大幅削減のムチをセットに導入した。その結果、3232町村が1727に減少した。市の数が町を超え、村の数が200以下となる。大阪府では堺市と美原町が合併した。香川県や大阪府よりも広い市が誕生したり、飛び地が発生する自治体が生じた。合併で財政規模が大きくなるが、小さな自治体機能が実現できない。特例債の発行で自治体の債務が増加するなどの矛盾が生じた。