モックルです。モックルいきいき講座第1回のページです。モックルです。
  平成23年6月29日(水)10時〜11時30分、4階イベントホールで開催されました。
 モックルいきいき講座前期全5回シリーズの第1回を取材しました。
 演題:「古代の官僚・高向玄理(たかむかいのくろまろ)〜古墳の発掘から分かった当時の政治〜」
 講師:河内長野市教育委員会生涯学習部ふるさと文化課 太田宏明氏

 本講座は、くろまろ塾認定講座であるため、会場は定員いっぱいの受講生で埋まりました。
 同塾の学長・芝田市長の開講の挨拶があり、たくさんの受講者とともに終了まで受講されていました(マウスオーバーで画像が変わります)。
 【講演要旨】      
講座の模様   高向玄理は、7世紀前半に活躍した古代日本の高級官僚であり、河内長野市高向の出身と言われています。この高向玄理は、なぜ遣隋使や遣唐使となり高級官僚になり得たのか、主として古墳発掘から、その背景を玄理の時代にさかのぼって講演された。
 玄理は河内国すなわち畿内の出身であることが重要な意味を持つ。畿内は、中国で帝王の居城から千里四方の地域を王畿とし、畿内には王や諸侯を住まわせない直轄地であった。この考え方を元に畿内を定めた。
【史実からの考察】
  @大化の改新後、「名張の横河」「紀伊の兄山」「明石の節淵」「狭々波の合坂山」の4地点内を畿内と定める(改新の詔2条)。A天武・持統朝で畿内制を確立し日本国家の中心で軍事上の重要地として武装化の対象として守った(天武14年)。B養老の律令で畿内からの租税を安くした。史実からこの3点が見られるが、明文化する以前(玄理が生まれる100年前頃)から、このような畿内制が行われていたと考えられる。5世紀ころは、官僚は日本各地から広く人材を集めて重用していたが、継体天皇の時に九州の磐井の乱(じつは岩井氏は中央官僚であった)が起こった以後の頃から畿内人を官僚として登用しはじめた。これは日本書記に記載されている官僚の出身地は畿内であることから伺うことができる。このような政治的背景から、畿内人は畿外の人よりも信頼性が高いと見なされ官僚として登用したのであろう。
【古墳の発掘からの考察】
  5世紀頃は巨石を使った巨大な古墳で合ったが、6世紀になると古墳は小さくなるが、巨石を扱う技術が中央から畿内へと広がるに従い巨石を使った墳墓が広がった。内部構造も、天皇や有力豪族が用いた、古墳入り口から先道に続く石室(玄室)〜横穴式石室〜という形態が畿内の古墳へと波及する。しかし畿外の古墳はこのような内部構造が見られない。畿内の古墳からの副葬品は、装飾を施された立派な太刀などが出土している。これは皇族や有力豪族から拝受されたものと考えられている。これら古墳構築技術と副葬品から畿内制は6世紀段階で成立していたものと考えられる。
 ところで、三日市10号墳は玄理の父の頃の古墳とされている。古墳の形態が天皇や有力豪族と同じ横穴式石室の内部構造であることから、この地域は中央の皇室や有力豪族との情報や人的交流があったことが推定される。当時の墳墓の考え方は、現在とは異なる価値観があり、墳墓の構築は重要視されていた。この墳墓の構造は実地見聞や口伝で得えられたものであろう事から中央の皇室や有力豪族との繋がりを推定される。さらに同古墳の副葬品の内には、装飾された立派な太刀が出土していることから、高位の人から授けられたものであろうと推定されている。
 この古墳の発掘からは、被葬者は中央の高位の人と繋がりがあり人的交流や情報交流があったであろうと推定される。
 このように、文献上と古墳発掘結果から、河内国は中央政権との密接な関係が背景にあった故に、玄理が官僚に登用される条件が整っていたであろう。
 また玄理は渡来人系の家系であったので、語学(中国語、朝鮮語)に堪能で優秀な人であったであろうことから、聖徳太子に選ばれ小野妹子の遣隋使船に乗ったと考えられる。
【高向玄理は河内長野市高向の出身か?】
  玄理は、河内国錦織郡高向邑の人と日本書記にあり、錦織は富田林市と河内長野市一帯を示す。この地域で高向を示す所が、現在の高向であろうし、高向の地名が河内長野市に現在も残っており、高向神社が存在し、神社内に高向王の塚がある。さらに高向遺跡の発掘で飛鳥時代〜奈良時代の建造遺跡群を確認されている。以上のことから、高向玄理は、現在の河内長野市高向の出身であると考えられている。