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1336年(建武3年)の湊川の合戦で、兄である楠木正成と刺し違えて自決した弟の正季の墓が、和泉33ヶ所霊場のひとつ、宝国時の境内にある。
3つに折れて倒れていた墓石を、1913年(大正2年)に府中在住の和田医師が修理した。背面にくさび型の溝を掘り、和泉砂岩の柱をはめて、三片を連ねた。
松尾寺の所蔵史料「和泉市史紀要第三集」巻4-1に記載。楠木正成の三男楠木正儀(まさのり)が書いた命令文書。
松尾寺が南朝と密接な関係にあったことを示す文書。71点の文書が、全17巻にまとめられており、大半が14~15世紀を中心とした中世文書である。そのうち、巻一から巻十一までが府指定有形文化財で、和泉市における第一級の文書群と評することができる。巻一・二には後醍醐天皇や後村上天皇の論旨が収められている。
松尾寺の寺宝で、国の重要文化財に指定されている。
1335年(建武2年)と書かれた奥書には、弘真(こうしん)の名が刻まれている。彼は、文観房(もんかんぼう)弘真といい、後醍醐天皇側近の護持僧である。討幕運動の主導者の一人であり、楠木正成と後醍醐天皇を引き合わせたのも文観であると言われている。
国府城の所在地は諸説あるが、泉井上神社付近にあったとされる説が有力である。
神社境内には「古城」と彫られた石碑が建っている。そして神社の東側に御館山児童公園があり、ここには和泉国府の石碑がある。
ただし、国府城は築城年も築城者も不明。一説では和泉国の高名な武士「和泉三十六士」の中で最も所領の多かったとされる領主であり、大鳥神社の神主を兼ねていた家系の田所氏が築城したのではないかとされている。1504年~1521年の永正年間に、紀州国北部に住む僧兵集団「根来衆(ねごろしゅう)」によって焼き払われたと言われている。
※「楠公さん」ゆかりの地の紹介ページです。文化財に関する詳しい説明は省略していますのでご了承ください。