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大学連携講座―高野山大学編―弘法大使空海の生涯―高野山開創とその背景ー
大学連携講座―高野山大学編― 弘法大師空海の生涯-高野山開創とその背景-を受講しました!
くろまろ塾運営ボランティア スタッフ2022年02月23日 12時|くろまろ塾くろまろ塾運営ボランティア
みなさま、こんにちは!
お久しぶりです。くろまろ塾運営ボランティアの後藤です。
今回の高野山大学連携講座は
第一回 高野山中国人留学生-密教を媒介とした日中文化交流-
第二回 弘法大師空海の生涯-高野山開創とその背景-
でした。
第二回をレポートさせていただきます。
よろしくお願いします。
毎回大人気の高野山大学連携講座とあって、
今回も万全のコロナ対策の下で大勢の方が受講されました。
講師の高野山大学文学部密教学科准教授 櫻木 潤先生は、四年前にも「弘法大師空海の生涯」をテーマに二回にわたりご講演くださいました。(第一回 入唐前の軌跡、第二回 上は国家の奉為にして、下は諸の修行者の為に)
「歴史学」の手法は、あくまで史料に基づいて歴史的真実に迫っていくものとおっしゃり、「歴史学のおもしろさ」を説かれました。私は高野山に上がって三年目の新進気鋭の歴史学者櫻木先生のマジックにかかったように、史料を読み進むにつれ弘法大師空海に惹かれ、魅力にハマってしまいました。
「弘法大師空海をよりくわしく知りたい方へ」と添付してくださった参考文献を図書館で探して読み、その頃ちょうど映画化されていた『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』(夢枕獏著)四巻を一気に読んだことを懐かしく思い出します。
今回の講座ではどのような弘法大師空海像を講義して下さるか楽しみでしたが、まず先生の博士論文が「祟りの研究」だったという意外なお話から講義が始まりました。
なぜ人は祟りを恐れるのか、御霊信仰にはどのような歴史背景があるのかという研究をされたそうです。
1200年前、毎年のように起こる疫病の流行や、地震、日照りや水害などの自然災害の頻発は、無実の罪を着せられた人々が祟りを起こしているのではないかと考えられたそうです。
韓国ドラマ顔負けの皇位継承をめぐる宮廷内の争いで、排斥され非業の死を遂げた人々は怨霊になり天災や疫病を起こすと考えられたので、これを鎮めて御霊とすることで祟りを免れようとしたそうです。
科学的に研究することができる現代とちがい、当時は疫病の原因も治療法も分からず、人々はどれだけ心細く、救いを願ったことでしょう。
コロナ禍の今、中世ヨーロッパのペストや100年前のスペイン風邪のことがよく比較されますが、弘法大師空海の活躍されていた時代も1200年前の遠い出来事ではなく、今まさに新型コロナという疫病流行の真っただ中にいる私たちにつながるものがあるはずです。
「歴史とは、過去と現在、そして未来との対話である。」(E・H・カー)を挙げられて、コロナ禍の今、そしてポストコロナの未来に向けて私たちは何を学ばなければいけないのか、弘法大師空海の高野山開創に何かヒントはないか、「お大師さんに語ってもらおう!」と講義がスタートしました。
弘仁7年(816年)、空海は嵯峨天皇に高野山の開創を願い出ますが、その上表文に
「空海少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向かって去ること両日程、平原の幽地有り。名づけて高野と曰う。・・・」とあります。
さらに「深山の平地尤も修禅に宜し」ともあり、山々に囲まれた盆地である高野山が特別の場所であることがわかります。
普通、山は下界を見下ろせるが、高野山は下界を見下ろせないと教えていただき、あらためて高野山が特別な山なのだと気づかされました。
下が高野山全図ですが、元来全山すべてが金剛峯寺だったそうです。
高野山開創をめぐっては、丹生津比売が土地を献上した話、狩場明神の二匹の犬に導かれた話、唐から投げた三鈷杵が松に掛かった話などの伝承がありますが、いずれも空海が示寂した後のものだそうです。
講義では、弘法大師空海がどのような思いで高野山開創を目指したのか、
「嵯峨天皇への上表文」
「宮内庁主殿寮の助布施海宛の書簡」
「諸の有縁の衆を勧め奉って秘密蔵の法を写し奉るべき文」
と、”空海のことば”を読み解きながら考えました。
格調高い上表文の中には、自然のなかで修行する人は「是れ国の宝、民の梁なり。」とあり、こういう人材を高野山で育てようと考えていたことがわかります。
嵯峨天皇へは上表文を書く一方で、天皇の側近の布施海を通じて手紙で高野山開創の祈願を伝えてもらおうともしました。
さらに、上表文の前年には各地に弟子を派遣して、書簡で真言密教の経典の書写を勧め、それに必要な筆や紙を求めるということもしています。
これらの書簡から、空海がいかに用意周到に高野山開創に向けて準備をしていたかがわかります。
下は、空海と嵯峨天皇です。
唐の恵果から学んで持ち帰ったのは都会の仏教であり、さらに都の中心で絶大な権力者嵯峨天皇と親交を深め、大きな寺を任されていた空海がどのような思いで高野山開創に至ったのでしょう。
冬の高野山の気候の厳しさ、雪の多さを教わりました。
けれども冬が一番良いことも。
高野山を開いてすぐの小さな庵のなかで、冬の厳しい修行に励む「お大師さん」の姿が思い浮かびます。
空海にとって高野山は特別の山であり、高野山で亡くなられたことで終には高野山と一体になり、1200年後の現代まで「お大師さん」と敬われる存在になったのかもしれません。
最後に、今回もくろまろ塾運営ボランティアの仲間が司会、受付やアンケート回収に活躍してくれました。
お疲れ様でした!