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楠公さんも学んだまち河内長野

 平成29年、神戸市、四條畷市、島本町、千早赤阪村、富田林市、河内長野市の6市町村が連携し、全国的な知名度を持つ「楠木正成・正行親子」をテーマとして、文化庁の日本遺産の認定を申請しましたが、残念ながら認定には至りませんでした。

 機運醸成のため、多く方々や関係団体、メディアにもご支援、ご協力をいただきましたことを心より感謝します。今後は、「楠公さん」でまとまったご縁を大切に、観光振興、文化財関係などで連携を図りながら交流人口の増加につながればと考えています。

 平成29年4月

 河内長野市長 島田智明

楠木正成

楠木正成

日本遺産認定申請をめざした検討経過

 神戸市、四條畷市、島本町、千早赤阪村、富田林市、河内長野市は、中世には楠木正成・正行その一族が活躍し、近代には正成を顕彰する活動が特に盛んであった地域で、彼らを慕う地域文化や彼らが遺した文化遺産、そしてこれらを巡る文化を体感することができます。

 上記の6市町村では、このような地域特性に着目し、楠木正成・正行の遺産を魅力的なストーリーで相互に結び、文化庁の「日本遺産」の認定を受け、地域の魅力発信、活性化を行っていくことを検討しました。

会議の様子

会議の様子

下記のスケジュールで6市町村による連携会議(シリアル会議)を開催しました。

  • 平成28年11月15日(火曜日) 第1回シリアル会議
  • 平成28年12月9日(金曜日) 第2回シリアル会議
  • 平成29年1月19日(木曜日) 第3回シリアル会議
  • 平成29年1月27日(金曜日) 大阪府教育庁へ申請書提出
  • 平成29年4月(下旬) 文化庁から発表予定

日本遺産とはどんな制度なの?

 日本遺産(Japan Heritage)とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定する制度です。

 保全のための規制等ではなく、ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。

世界遺産や指定文化財との違い

 世界遺産登録や文化財指定は、いずれも登録・指定される文化財(文化遺産)の価値付けを行い、保護を担保することを目的とするものです。一方で日本遺産は、既存の文化財の価値付けや保全のための新たな規制を図ることを目的としたものではなく、地域に点在する遺産を「面」として活用し、発信することで、地域活性化を図ることを目的としている点に違いがあります。

文化庁へ日本遺産認定を申請

 平成29年1月、文化庁への窓口となる大阪府教育庁に日本遺産認定を申請しました。

 申請したストーリーは、「摂津・河内に生き続ける楠公さん~中世のサムライヒーローが遺した聖地を巡る旅~」。

 楠公さんとして親しまれた楠木正成・正行親子は、後世まで名を馳せた中世のサムライヒーローです。僅かな兵で智略を以って大軍と対峙した戦略家の姿、敵味方を問わず相手を敬う姿は、浄瑠璃や講談を通じて日本人を魅了しています。

 彼らの活躍は伝承・盆踊り・地車の曳ひき唄うたなどを通じて語り継がれ、その舞台となった城郭や戦跡あるいは寺社は聖地となり、これらを巡り楠公さんを今に感じる旅が息づいています。

楠木正成

なんこうさん

日本遺産認定応援講演会「中世のサムライヒーロー楠公さん」

 日本遺産認定に向けて機運を高めようと、平成29年3月4日(土曜日)に、楠木正成ゆかりの観心寺にて、下記の講演会を開催しました。

  • 講演 「観心寺と楠公さん」観心寺長老 永島龍弘
  • 講談 「太平記 楠木正成」上方講談師 旭堂南青

主催 観心寺
共同主催 神戸市教育委員会、四條畷市教育委員会、島本町教育委員会、千早赤阪村教育委員会、富田林市教育委員会、河内長野市教育委員会
協力 河内長野市観光協会

 

楠木正成ってどんな人なの?

 楠木正成は、今から700年ほど前、南北朝時代を生きた武将です。

 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が北条氏執権の鎌倉幕府討伐を唱えると正成もく加わり挙兵しました。

 正成は、敵の意表をつく様々な知略を巡らし、戦で大いに手腕を発揮します。例えば「赤坂城の戦」では塀を二重にして、近寄る敵めがけて塀を倒して下敷きにしたり、大柄杓で熱湯を浴びせて防戦。また「千早城の戦」ではわずか一千あまりの兵で、数万の幕府軍を悩ますなど、天皇の窮地を救います。

 正成の活躍もあり、1333年(元弘3 年)、鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇の親政「建武の新政」が実現します。新政への功績が認められた正成は、摂津・河内の守護となり、多くの所領を与えられます。しかし、天皇親政の理想は、諸国の武士の反発を招き、1335年(建武2年)、足利尊氏の反乱で崩壊へと向かいます。

 1336年(延元元年)、天皇から尊氏を討つよう命じられた正成は、新田義貞とともに尊氏と戦い、一時は九州まで敗走させますが、諸国の武士を味方につけた尊氏は、軍勢を増強しながら東上します。新政の失政を目の当たりにした正成は、尊氏との和睦を天皇に上奏しますが、受け容れられません。また、尊氏軍を一旦、京に入れ兵糧攻めにする作戦も却下されます。

 正成は、敗戦を覚悟しながらも天皇の命に従い、わずか七百騎余の軍勢で兵庫湊川へ向かい、激戦の末、最期は弟の正季とともに壮絶な自害を遂げます。享年43歳。

 私利私欲ではなく、公のために戦った知略の武将、楠木正成の生き様は、後に多くの人々の心を捉え、今も「楠公さん」として親しまれています。

楠木正成像(観心寺所蔵)

楠木正成像(観心寺所蔵)

中世のサムライヒーロー楠公さん魅力発信SNS

 河内長野市では、中世のサムライヒーロー楠公さん(楠木正成・正行)をテーマに、下記のSNSで魅力発信を行っています。ぜひ、ご一読いただき、シェアをお願いします。

河内(かわち)音頭(おんど)

盆踊りの際に唄い継がれている音頭。一説には、正成、正行の霊を弔うためにはじめられたものとされる。

(なん)(こう)(さい)

地域のヒーローである楠木正成やその一族の霊を弔いつつ、楠公精神を現在に伝えるまつり。

地車(だんじり)まつり

地車(だんじり)彫刻(ちょうこく)

曳き唄(ひきうた)

五穀豊穣を祝うため、氏神神社の秋の祭礼時に、曳き唄を唄いながら、地車が各地域で曳き回される。                           

曳き唄や彫刻に、大楠公を題材にしたものがいくつも見受けられる。地域に息づいているヒーロー正成を慕う文化をよく示している。

楠木(くすのき)正成像(まさしげぞう)

 

楠木正成の勇士を現した銅像、石像。正成を慕う文化が地域に息づいていることを示す文化遺産。

(かん)心寺(しんじ)

 

中世に学問寺として栄え、楠木正成を育んだ地域の文化や社会環境を整え、南朝の拠点となった寺院。後に正成を祀り奉賛する舞台ともなった。

(かん)(しん)寺中院(じちゅういん)

正成が8~15歳までの間、住職の(りゅう)覚坊(かくぼう)に学問を習ったとされ、幼き日の正成の逸話を後の世に伝えている。

(かん)心寺(しんじ)(たて)掛塔(かけのとう)

楠木正成の発願(ほつがん)によって三重塔として建て始められたが、湊川の戦いで戦死したことにより、建設途中で未完のままとなったと伝えられる塔。

 正成のクライマックスとなった逸話を後の世に伝えている建造物。

藍韋(あいかわ)(かた)(あか)(おどし)腹巻(はらまき)伝楠(でんくすのき)正成(まさしげ)所用(しょよう)

楠木正成が着用し、奉納したとする寺伝を有する甲冑。室町時代中期のものと見られる。正成の逸話を後世に伝えている。

楠木(くすのき)正成(まさしげ)(くび)(づか)

観心寺の境内にある。湊川の戦いの後、尊氏の命によって送り届けられた正成の首級が葬られているとされる首塚。正成のクライマックスとなった逸話を後の世に伝えている。

金剛寺(こんごうじ)

 

 楠木正成の自筆書状などが伝わっており、彼の人柄などを後世に伝える貴重な資料が多く収蔵されている寺院。観心寺と同じく中世の教育機関となり、南朝方の拠点となった。

天野(あまの)殿(でん)

現在、「食堂(じきどう)」として重要文化財に指定されている。南朝の正庁として使われた建物で、江戸時代に書かれた「河内(かわち)名所(めいしょ)図会(ずえ)」には、ここで楠木氏一族が加わり軍議がなされた様子が描かれており、彼らの活躍の舞台として後世に伝わっている。

紙本(しほん)墨書(ぼくしょ) (くすのき)()文書(もんじょ)

金剛寺に伝わる楠木氏が宛てた文書群。この中に正成が金剛寺僧の戦勝祈願の霊験を喜び、その労を謝したものがある。正成の活躍や人柄を後世に伝えている資料である。

伝楠氏一族所用腹巻及(でんくすのきしいちぞくしょようはらまきおよび)(ひざ)(よろい)

金剛寺に伝わる楠木一族が奉納したと伝えられる12領の鎧。正成の活躍を後世に伝えている資料である。

(あま)()古戦場(こせんじょう)(あと)

出合(であい)の辻

元弘三年(1333)正月に行われた正成方と鎌倉幕府方とが戦った(あま)()合戦(がっせん)の古戦場跡。敵、味方が出合った場所にちなみ「出合」という地名が残る。正成の活躍の舞台として後世に伝わっている。

大江(おおえ)(とき)(ちか)(てい)

 

 楠木正成の兵法の師とされる大江(おおえの)(とき)(ちか)の邸宅とされる場所である。現在、邸宅の敷地と18世紀の築造とみられるカヤ葺民家があり、時親より34代目の当主が居住している。幼少期の正成の行動を後世に伝える舞台となっている場所。

烏帽子形(えぼしがた)城跡(じょうあと)

楠木正成が築造した七城の一つと伝えられ、正成の活躍の舞台となった場所とされ、後の世に伝えられている。

石仏(いしぼとけ)(じょう)(あと)

 楠木正成が築城した支城の一つという伝承がのこっている。天見合戦の際に、兵を伏せたとする伝承もあり、正成の活躍の舞台となった場所とされ、後の世に伝えられている

(はた)()(じょう)(あと)

天見駅東方にある(はた)尾山(おやま)頂上にある。(あま)()合戦(がっせん)の際に、楠木正成が見張りを置いたとする伝承があり、正成の活躍を後世に伝える場所となった。

大沢(おおさわ)(さい)(あと)

大阪、奈良、和歌山の県境付近にある。楠木正成が千早城を守るための防衛陣地の一つとして設けたといわれ、正成の活躍を後世に伝える場所となった。

矢伏(やぶせ)観音(かんのん)

石造十一面観音で高さ43cm幅 18cmの船形石に刻まれており、楠木正成にまつわる「身替わり」伝説が伝えられている。

幼少の頃の正成が兵法家大江時親に兵法を学んでいた際に、楠木氏と敵対する八尾(やお)(矢尾)(あき)(ゆき)が刺客を放ち命をねらわせたが、観音の加護により命を救われたとされる。幼少期の正成の逸話を後世に伝える舞台となっている。

大江(おおえ)修理(すりの)(すけ)遺跡(いせき)()

明治35年(1902)に、帝国博物館(現在の国立博物館)の初代総長を務めた九鬼(くき)(りゅう)(いち)によって、大江時親を顕彰するために作られた碑文。

幼少期の正成の逸話を後世に伝える舞台となっている。

位置図

河内長野市の楠公ゆかりの地「観心寺」

 河内長野市寺元にある観心寺は、楠木家代々の菩提寺であったことから、正成ゆかりの遺構が数多く残されています。

 観心寺の山門を入って左手にある中院跡、そこはかつて正成が8歳から15歳まで、滝覚房という僧に学問を学んだと伝わります。

観心寺

観心寺中院

 また、正成が三重塔建立の発願後、湊川の戦いで戦死したため、初層のみで中断されたと伝わる「建掛塔」があるほか、足利尊氏の命で観心寺に届けさせたという首級が葬られた「首塚」が残されています。

 なお、観心寺では、正成の命日である毎年5月25日に、「楠公祭」という法要が執り行われています。

楠公祭

建掛塔

首塚

 湊川で戦死した正成の首は、足利尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚として今も残されています。

河内長野市の楠公ゆかりの地「伝大江時親邸跡」

 加賀田には、正成が観心寺から軍学兵法を学ぶために通ったという大江時親邸跡があります。敷地内には時親遺愛とも正成の手植えともいわれる枝垂桜の老木があり、今も4月初旬には、滝のように花を咲かせています(住居のため見学は不可)。

大江時親邸跡

河内長野市の楠公ゆかりの地「天野山金剛寺」

 千早城が攻略される中で、正成が金剛寺に向けて、幕府軍が金剛寺内に城を構えることのないよう要請した文書が残されています。(金剛寺所蔵)

金剛寺文書

他にもありますゆかりの地

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〒586-8501
大阪府河内長野市原町一丁目1番1号
電話:0721-53-1111
E-mail:furusato@city.kawachinagano.lg.jp
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